多気郡明和町にある斎宮は、近鉄電車がそばを通る竹の都といわれるところです。歴史的呼び方である斎宮(いつきのみや)は、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王(いつきのひめみこ)の住む所でした。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられます。
斎王に選ばれると、皇女は嵯峨野の野々宮神社に入り前後三年間の潔斎を経て、伊勢の斎王宮に群向します。そして、天皇が退位するか、両親が死ぬまで、ここで斎王として暮らすのです。
この斎王宮は神宮のある宮川の外側にあり、普段斎王が神宮の神域に立ち入ることは禁止されていたそうです。斎王といえども穢れた神域外で生まれ育ったことには変わりなく、6月・9月・12月に行われる三節祭の時のみ、神域内に入り、外宮・内宮に玉串を捧げていたそうです
崇神天皇(すじんてんのう)の頃、天照大神(あまてらすおおみかみ)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、宮殿の中に祭られていました。けれど二柱の神を同じ場所に祭ることは不都合が多かったため、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に移して、崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせることとなりました。これが『斎王』の始まりです。斎王は神の依代(よりしろ)でもあることから、『御杖代(みつえしろ)』と呼ばれることもあります。
垂仁天皇(すいにんてんのう)の時、老齢となった豊鍬入姫は斎王の任を退き、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)がその後を継ぎました。この倭姫は日本古代の英雄・ヤマトタケルの叔母にあたります。彼女は天照大神を鎮座させる場所を求めて、宇陀(うだ)?近江?美濃を巡り、遂に伊勢の国に至りました。ここで初めて天照大神が満足の意を表わしたので、この国に社を建て(伊勢神宮の始まり)、斎王が忌みこもるための宮を五十鈴川のほとりに建てました。これが『伊勢の斎宮』の始まりです。
斎宮制度は伝説の時代を除くと、天武天皇(てんむてんのう)皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)から始まって南北朝に廃れるまでの約660年間続いたそうです。
天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代します。斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限りません)の中から占いで選ばれます。大体が母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりするので、占いで決めるといっても、あまり公平な選び方ではなかったようです。
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