関宿の鳥居


  亀山市関町は、東海道47番目の宿場町です。関宿の東の追分けにある鳥居は、伊勢神宮遙拝用に一の鳥居として設置されたもので、神宮式年遷宮の度に内宮の宇治橋神域側の鳥居を削り直してつくられます。この鳥居の2本の柱は元々は正宮棟持柱だったものでもあります。遷宮の2回にわたってリサイクルされている中世からのエコ遺産です。

  東海道と別れ、この鳥居から伊勢神宮を目指す伊勢別街道といわれる、江戸時代の重要な街道のひとつで、この分岐場所を関宿東の追分と呼ばれていました。

伊勢別街道との分岐、東の追分から大和街道との分岐、西の追分までの約2kmが、昭和59年に「関町関宿重要伝統的建造物群保存地域」に、昭和61年には「日本の道百選」にそれぞれ国の選定を受け歴史的景観の保存に力を入れた町づくりが行われています。


  東海道五十三次第47番目、屈指の宿場として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わいました。 天保14年(1843)の記録には、屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣2軒、旅籠42軒酒食店99軒があったと記されています。

    銀行もレトロ…です。

   関宿は、「壬申の乱」の舞台や京から伊勢に行く「斎王群行の道」、一休禅師による「関地蔵開眼話」、さらには、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」などこの街道にまつわる話は実に多くあります。
  鈴鹿国定公園の南山麓に位置する「関」が歴史に登場するのは,古代日本三関の一つ「鈴鹿の関」が7世紀にこの地におかれてからで,これが地名の由来となり,古くから交通の要衝であるからでしょう。

西の追分は、京へ向かう東海道と奈良、大阪へ向かう大和街道の分岐点です。


  「関の山」と言い方をすることがありますが、これは、関宿の夏祭りに出る山(関東で言う山車)が立派であったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになったようです。また、山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、これが目一杯という意味で語源とする説もあるようです。

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東海道 要塞都市「亀山」


 三重県亀山市はとても小さな城下町なのですが、東海道が東西に通り発達した街です。旧城下町は丘陵地の崖地の上に広がり、そこから、さらにせり上がる高石垣の上に城下町唯一の遺構 多門櫓がそびえています。
 この城下町は、丘陵地を切り開いて城地を整備し、谷筋を埋め立てて堀を造りだしてきました。
 寛文年間には、家数370、旅籠屋21軒が記録されている亀山宿には、東町と西町に分かれ、東町にあった大手口の前には樋口本陣と椿屋脇本陣がおかれました。

  亀山は鈴鹿山脈の南麓の中腹に位置し、南を東流する鈴鹿川沿いにある亀山駅からみると20?30m上がった小高い丘の上に位置しています。麓下にある県道(旧国道1号線)から北方向を見上ると、斜面の緑が帯状に連続し旧城下町と宿場町が丘陵地にあることが実感できます。
 東海道の鈴鹿の関に近い亀山の地は、交通の要所であるだけでなく、西方からの防衛最前線の役割も持っていたのかもしれません。
 亀山城下町は、周囲から一段高く急峻な崖地に囲まれた場所にあり、鈴鹿山脈を越えてきた上方からの侵攻を食い止める要塞都市として建設されたのです。
 東海道はもともと鈴鹿川沿いに通っていたのを城下へ引き入れ宿場町をつくったようです。

  江戸から東海道を上る旅人は、桑名の渡し場で船を下りたあと、四日市宿、石薬師宿、亀山宿、関宿を通り鈴鹿の峠を越えて畿内に入ります。
 広重は、モノトーンに近い雪景色の静寂の中に京口門と斜面下に佇む家並みを描き、斜面を登る旅行列をわずかに覗かせてアクセントとしています。そして中央の松が迫上がり、京口門を押し上げている斜面を一層鋭角に見せています。
 静かな町並みで「亀山に過ぎたるものの二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謳われた亀山宿京口門を出て、旅人達は関を目指した。広重の東海道五十五枚中の三代役物のひとつとされている傑作『亀山雪晴』はこの場所から描いたと言われている。現在はかつてここに門があったことを伝える案内板があるのみだが、広重が心に留めたであろう亀山城の方向を仰いで、往時を偲ぶことができます。

  亀山西小学校は、東三の丸御殿のあった場所にあります。最近建て替えられたようですが、白壁が美しく古い町並みに無理やり合わせることなくて、とてもきれいなデザインでいい感じです。道の向かい側には、市役所があります。


  亀山市は、昔から交通の要衝でしたが、亀山ローソクに代表される地場産業があったにすぎなかった。
 近年になると、隣接する鈴鹿市に本田技研工業の鈴鹿工場があるために自動車関連産業が、また、古河電気工業の銅線工場に代表される非鉄金属産業が市内の製造品出荷額のそれぞれ4分の1以上を占めてきた。
 2002年にシャープの液晶工場(シャープ亀山工場)が建設稼働して「世界の亀山モデル」と吉永小百合さんのCMで一躍名を馳せました。以降、液晶関連産業の集積も進んでいましたが、シャープ亀山工場の一部海外移転など今後の課題もあります。

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東海道 日永の追分(四日市)


  四日市市追分にある日永の追分は、東海道と伊勢街道(参宮街道)の分岐点にあります。道標は、嘉永2年(1849年)建立。「左いせ参宮道」「右京大坂道」「すぐ江戸道」とあります。 旧道標は、明暦2年(1656年)建立で、現在は日永神社に移転されていて、「京」「山田」「南無阿弥陀仏 恵心」とあります。


 伊勢神宮、二の鳥居が建てられています。安永3年(1774年)の建立以来、伊勢神宮式年遷宮毎に神宮の古材を使って建て替えられています。
 常夜燈は、安永3年(1774)建立。この場所には水場がありペットボトルなどをたくさん持った人がひっきりなしに訪れていました。

 日永の追分は、間の宿(あいのしゅく)がありました。江戸幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場と宿場の間に休憩用の「宿」が置かれることがあり、「間の宿」と呼ばれました。
 東海道沿いでは、小田原-箱根間の「畑宿」、由比-興津間の「倉沢」、池鯉鮒-鳴海間の「有松」などが間の宿としての町並みを残しています。


  十返舎一九の弥次北道中記に四日市の旅宿での騒動がある。
 宿の女中に夜這いしようと、弥次郎兵衛がさぐりにいくうち棚板をはずしそうになった。北八に持ってもらって、目指す女中に触ってみると石の地蔵であった。
下の広重の絵に「はひかけし地蔵の顔も三度笠 またかぶりたる首尾の悪さよ」の狂歌があります。


東海道 七里の渡し(桑名)


 東海道、三重県の一歩目は、七里の渡し前にある伊勢神宮遥拝のための一の鳥居から歩き始めることになります。
 慶長6年(1601)東海道が制定されて、江戸から京へ向うと宮宿(熱田神宮)と桑名宿の間は、街道唯一の海路利用で七里の渡船と定められました。所要は3?4時間と思われますが、潮の干満によりコースは違っており、時間も一定できず気象状況により欠航も多かったようです。

 歌川広重は江戸寛政9年に誕生。安藤家家業の火消しを継ぎ、その後に浮世絵師に。浮世絵師として安藤広重という名は使用しておらず、歌川広重が正式名。

 桑名宿は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。江戸後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇っていた。

 鳥居は江戸時代の天明年間に伊勢国のはじめの地にふさわしい鳥居をと願い、矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたのが始まりで、明治以降は神宮式年遷宮のたびに宇治橋外側の鳥居を削って建て直されている。

 鳥居のそばにある常夜燈は江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、元は鍛冶町の東海道筋にあったが、移築された。元は天保4年(1833)建立のものであったが、昭和37年に台風で倒壊したので、台石は元のままであるが、上部は多度大社から移したもので、安政3年(1856)銘がある。


  桑名城は、現在九華公園として市民に憩いの場として親しまれていますが、ここの初代お殿様は、徳川四天王の一人、本多忠勝と言う人物で「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八(忠勝)」とまで言われた名将であり、それがためか、お城近くには巨大な忠勝像があります。以後は、徳川家ゆかりの松平家が代々藩主となり、大政奉還の折も会津、箱舘と最後まで幕府軍として戦いました。
  今は、ウミネコさんたちの居城になっています。

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