津城 藤堂高虎


  近江国(滋賀県甲良町)生まれ。父は「江」の父である浅井長政家臣であった藤堂虎高。母の名もおとら。 生まれた時に2倍はあろうかと言われた大柄で、成人してからは身長6尺2寸( 約188cm)体重30貫(約113kg)あったと伝えられる。
 織田・徳川連合軍との“姉川の戦い”に15歳で初陣
主家を7(10)度も変え、最後は徳川家外様筆頭として存続し、「戦の折には徳川軍の先鋒は井伊か藤堂に」と言わせるほどに、また家康・秀忠・家光の三代に仕え、江戸の町造りにもその手腕を発揮した。
「風見鶏大名」とも言われているが、体ばかりで無く、その技量・才能たるや抜群で、家康のみならず、どの大名も彼がほしかったに違いない。
 次代の権力を早く見定め、先手先手と行動する。一歩間違えば、家は断絶する戦国の世。情報網を張り巡らせ、冷静な判断力でこうと信じたことは果断即決で行動した。

 浅井氏滅亡後流浪した折、金も無く体が人一倍大きい高虎は、立ち寄った餅屋でつまみ食い、美味しさの余り20個余りも食べてしまい、「情けない! 頭を下げて謝るしかない」と思ったが、「見事な食べっぷり! 餅屋冥利につきます。お代は結構です。誠に些少ですが路銀の足しにしてください。ご武運を祈っております」との餅屋主人の言葉に、のちのち、伊勢伊賀の太守になっての大名行列の折、餅屋の親父の手を握り、持ちきれないほどの金銀を手渡したという浪曲・講談の“出世払い”の一説は有名です。

 高虎は近世城郭の名築城家としても著名であり、その力で豊臣包囲網の構築に大活躍して西国大名が豊臣家を応援できないように監視体制を敷いた。自身の城では、粉河・宇和島・大洲・甘崎・今治・津・伊賀上野。普請や奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・豊臣伏見・膳所・徳川伏見・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・徳川大坂など多数参加(朝鮮では倭城も築く)。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮や徳川家の菩提寺となる寛永寺の建立さえも高虎が携わっている。

 藤堂藩の家老の日記に、“藩祖ゆかりの餅屋で餅を食べる習わしがある”と書かれていますが、藤堂家では、旗指物を白い三つの餅にして、前記の“人の情け”を忘れないようにした、と言われています。その他に、「仁」「治」「勇」を表しているとか、白餅(しろもち)を“城持ち”に懸けて、「城持ちになれるよう手柄をたてよ」と兵を励ましたと言う愉快な説もあります

 築城ばかりでなく、江戸の街整備にも寄与した高虎の多岐にわたる才能は、津の街造りにも発揮され、宿場としても繁盛し、人馬の往来も多く、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」 と謳われたほど賑わいました。
 最も幕府の信頼厚い外様筆頭として、幕末まで転改封されること無く続いた藤堂家が、幕末最後の、“鳥羽伏見の戦い”(1868年【慶応4】正月3日開戦)の(1月6日の八幡・橋本陣地攻防戦)では、旧幕府軍として布陣したが、突如、一転して旧幕府軍に向って砲撃を開始し、新政府軍勝利の追い討ちとなり、旧幕府軍の大坂壊走を招きます。
 「次世代を担う主君を鋭く嗅ぎ取ることも、藤堂家の家訓の一つ」であり、脈々と受け継がれた結末でもあったのかもしれません。

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