三重県四日市の奥座敷、菰野町にある湯の山温泉は、御在所岳の麓に湧き出るアルカリ性ラジウム温泉で、地元の木こりが、鹿が湯に浸かっているところを見つけた所に、猟師が近づいて来たことを知らせて逃がせたことにより、鹿から怪我に効くお湯がわき出ていると教えてもらったという伝説があります。
湯の山温泉の名が一般に知られるようになったのは、西郷隆盛が反乱を起こした「西南の役」からで、そのときこの地が負傷兵の臨時療養所として利用されたことから、療養を終えた兵士が湯の山の景勝と温泉の効用を全国に伝えたとされています。
神経痛や外傷、皮膚病、婦人病に効果があり、身体が温まります。また、お肌がきれいになる成分を含んでいることから「美人の湯」とも呼ばれ若い女性からご婦人、ご老人にいたるまで好評です。
折鶴伝説・・・ときは江戸時代。上方の大店、ひとり娘の葵と使用人の佐吉は、結ばれぬ恋を思いつめ湯の山に。
そして、蒼滝にふたりで身を投げようとしたその時、ひとりの僧兵が現れ「温泉にでもつかれば、気持ちも変わるかも知れんぞ」と励ましたのです。
その言葉に気を取り直したふたりが湯に入ると、なぜか思い詰めていた気持ちが、ほんのりと解けていくのが分かりました。
あくる朝、僧兵に礼をと三岳寺を訪れたところ姿がみえません。せめて感謝の気持ちを伝えようとふたりは鶴を折り、寺へ奉納しました。すると折鶴は連なってひらひらと舞い上がり、飛びたっていきました。
この不思議な出来事に、明るい望みが生まれ、ふたりは上方に帰る決心をしたのです。
それから数年後、幸せになったふたりは三岳寺を訪ね、住職にあの僧兵のことを話すと、もう何十年も僧兵はいないとのこと。ふたりを救った僧兵は仏様の仮のお姿だったのでしょか…。
今でも三岳寺では、永遠の愛と、幸せに結ばれることを願い、折鶴を奉納する恋人たちの姿が絶えません。
毎年、柔らかな緑が芽吹く早春には、この心あたたまる伝説にあやかって「折鶴まつり」が華やかに行われています。
昭和二十五年には、愛知国体の登山競技開催地として全国に知れわたり、昭和三十四年の御在所ロープウエイ開通で爆発的な人気を集めました。
その間、多くの文豪や歌人、動植物研究家が訪れた湯の山温泉は、都市近郊にありながら豊な自然が残る温泉地です。
御在所岳へ登れば琵琶湖、伊勢湾を一望し、天気の良い日には遥か富士山をも遠望でき、温泉街には三岳寺や蒼滝、大石といった見所を訪ね歩く遊歩道があります。
冬の湯の山温泉は、湯治場として人気があり、長期滞在をされる方も多いようです。また、御在所岳ロープーウエイを利用して山頂に行けばスキーができるので、ファミリーに人気です。坂道ですので雪が降ると危険です。、雪道での車の運転には、くれぐれも気を付けてください。是非、折鶴伝説の湯の山温泉にお出かけください。
大きな地図で
癒しの旅、歴史散策、神社スポット、寺院スポット、巡礼の旅、グルメな旅
ヒーリングツァー http://healingtour.jp
三重県松阪市白粉町357-5
TEL 0598-23-0663 FAX 0598-23-0664
癒しの旅について等、お問い合わせありましたらお気軽にご連絡ください。 highlandybb@ybb.ne.jp TEL 0598-23-0663
浄土宗の教祖、「法然」は、1133年4月7日、美作の国(岡山県久米郡誕生寺)に豪族の家にお生まれになりました。幼名を勢至丸と名付けられ、両親、一族の深い寵愛を受け健やかに成長されました。
しかし、9歳の時に父が夜襲にあい、非業の死を遂げてしまうことになりました。父は、臨終間際に少年の法然上人に遺言を言われました。「決して仇を討ってはならない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならどうか、すべての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人を救ってほしい。」と残しました。
法然上人は、父死後9歳で、母方の叔父のお寺である「菩提寺」に預けられ仏教に手ほどきを受け6年後には、比叡山に昇り正式な出家の身となり天台宗の勉学にいそしんだ。
しかし、当時の比叡山は名誉や派閥争い等、俗世間的な争いも多かった。又出家のための仏教であって一般民衆は置き去りにされていた。勢至丸は比叡山の中でも高僧が集い、より修行、修学に励むことが最適な黒谷に隠遁する決意を固めた。
法然上人の正式な名前は、「法然房源空」。黒谷青竜寺では、比叡山の厳しい修行を勤めると同時に、一切経と向い合って学問にも励んでいった。上人の比叡山での修学は28年間もの長きにわたる。その間、常人では一生かかっても読破できないような膨大な量の一切経を5度も読み返したのであった。そのため「智慧第一の法然房」「ふかひろの法然房」と名声ばかりが広がっていったが、求める教えは見つからず上人の苦悩が晴れることは決してなかった。
善導大師に導かれて・・・法然上人は「観経疏」という唐の善導大師がお書きになった書物を8度も読み返していた。それには「南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、全ての人が漏れなく救われる。なぜなら阿弥陀如来の誓い(本願)だからである」という一文をご覧になった。阿弥陀如来の誓い=本願念仏によってのみ全ての人が救われる。善導大師のご文に導かれ、ようやく長年の苦悩が晴れ「これですべての人々が救われる」という確信を得た。
こうしてついに承安5年(1175年)43歳の春、法然上人は浄土宗をお開きになったのである。
(浄土宗のお寺と仏壇には必ず向って右側に善導大師をおまつりします)
法然上人が75歳の時、無実の罪で四国へ流されることになり弟子達は高齢の上人を心配して念仏を止めてはどうかと勧める者もいたが、「たとえ死刑にされるとしても念仏の教えを説くことは決して止めない!」と断固とした厳しい態度で戒めた。そして「長年、地方に行って念仏の教えを説くことが願いだった。今回それが果たせるのも朝廷のお陰である。念仏の教えは止めようと思っても広がっていくだろう」とお話になった。そうして四国へと向い、行く先々で多くの人々に念仏の教えを説いて聞かせたのである。
罪が許され約5年ぶりに京都に戻った。吉水の禅房は荒廃していたため大谷の禅房(現在の総本山知恩院)にお住まいになったが、高齢と所労が重なりほとんど病床につくようになった。
亡くなる2日前、横になり念仏しながら過ごす上人に、弟子の一人がどうか形見に一筆書いて下さいと懇願をした。そして念仏の要諦、浄土宗の肝要を『一枚起請文』としてお誓いになられ、書き残してくださったのである。
(「一枚起請文」は現在の浄土宗においてもお勤めの中で拝読しお経と同様にお読みしている)
建暦2年(1212)正月25日の正午、頭北面西のまま「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の経文を称え、眠るがごとくに極楽浄土へ往生された。80歳のご生涯であった。
法然上人が亡くなられて今年が800年という節目の年になり、各地で追悼する行事が行われます。京都にある総本山智恩院の大遠忌法要は平成23年3月27日から4月25日までの30日間行われます。「またとない勝縁にお出合いしましょう」とご参詣をPRされています。
法然上人は、お念仏を称えれば、誰でも極楽往生できるという教えを法然上人が広められたおかげで、初めて、仏教は万民のものになったのです。ぜひご縁をいただきましょう。
大きな地図で
癒しの旅、歴史散策、神社スポット、寺院スポット、巡礼の旅、グルメな旅
ヒーリングツァー http://healingtour.jp
三重県松阪市白粉町357-5
TEL 0598-23-0663 FAX 0598-23-0664
癒しの旅について等、お問い合わせありましたらお気軽にご連絡ください。 highlandybb@ybb.ne.jp TEL 0598-23-0663