大河ドラマ「江」 津城


 江が幼少期を過ごした伊勢の地は、穏やかな気候と自然豊かな所ですが、北畠氏をはじめ豪族がしたがたくさんいましたが戦国時代には、織田信長によって平定され、弟の織田信包が治めていました。そこへ生まれたばかりの「江」はじめお市の方と三人娘が約9年間、身を寄せ合い暮らしていました。

 安濃津城に入った織田信包は城を拡張整備して、五層の天守を築き、15万石を領した。城は、元亀年間(1570?1573)には着工したが、兄信長に従い各地を転戦していたため、完成は天正8年(1580)になったようです。この城は、関ヶ原の戦いで毛利軍によって焼かれてしまい落城しました。
 


  関ヶ原の戦いで東軍勝利に武功のあった、藤堂高虎が伊予今治から伊勢と伊賀22万石の領主として入りました。
 高虎は、当初は津は支城(後に本城とする・当初の本城は伊賀上野城)であったが、平時の居城として津城を拡張大改修し、街はずれを通っていた伊勢街道を城下に替えるなど町割りまで整備して町の発展を図ったが、天守閣は築かれなかった。
 その後、“大坂の陣”の功により加増を受け32万3千石余りの太守となり、藤堂氏は、久居藤堂(久居市)【この創設が功を奏し、宗家に6人の藩主を送る】・名張藤堂(名張市)と支藩を置き、伊賀上野城に城代を置いて領内治世を行った。
 藤堂家は江戸時代を通じてこの地を動くことなく12代世襲して明治に至った。

  江は、本能寺の変で信長が亡くなった時、津城に居たことになります。最初に住んだ、伊勢上野城には、7年ほどいたといわれるので、この津城には、2年間ほどいて、母のお市の方が、柴田勝家と結婚して越前北ノ庄へ移るまで平和に暮らしていたようです。

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和御魂・荒御魂(にぎみたま・あらみたま)


  伊勢神宮の外宮は、正式には「豊受大神宮」といい、古くは豊受宮、度会宮とも称され、祭神は天照大神の御饌都神です。豊かな食物の神であることから衣食住、ひいては産業全般の守護神として広く崇められています。
 ご鎮座について、「大神宮諸雑事記」によると、478年雄略天皇の夢に天照大神が現れ「丹波の国、比冶の真名井(京都府天橋立)にいます、わが御饌都神の等由気大神をわがもとへ迎えたい」と仰せられたので、今の地に御饌殿を設けたといわれています。皇大神宮の鎮座から500年後のことです。
 外宮では、鎮座より現在まで1日も欠かすことなく、毎日朝夕の二度、大神をはじめとする神々に御饌を奉り、国家の安寧と皇室の弥栄を祈念する「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」と呼ばれる祭典が行われています。

 和魂と荒魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、外宮の正宮(和魂)と多賀宮(荒魂)といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。


 和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れであるのに対して、荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。このことから、正宮でのお参りは、日々の生活や無事を感謝するようにして、お願い事や勇気をもらうことは、荒祭神でお参りするときに行うのがいいとされています。


外宮の正宮社殿は、内宮と同じ唯一神明造ですが、千木の先端が、内宮が水平であるのに対して、垂直に切られています。また、屋根にある鰹木の本数が内宮より1本少ないんです。

 外宮の別宮、多賀宮(高宮)は、九十八段の石階を昇った丘の上に鎮座し、豊受大神の荒御魂をお祀りしています。内宮の荒祭宮と同様に正宮に続いて祭典が執り行われ、奉幣の儀には正宮と同様に勅使が参列し、式年遷宮の諸祭も正宮と同様に同じ年に行われています。「第一別宮」として特別扱いの格を持っています。

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斎宮(いつきのみや)


  多気郡明和町にある斎宮は、近鉄電車がそばを通る竹の都といわれるところです。歴史的呼び方である斎宮(いつきのみや)は、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王(いつきのひめみこ)の住む所でした。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられます。

 斎王に選ばれると、皇女は嵯峨野の野々宮神社に入り前後三年間の潔斎を経て、伊勢の斎王宮に群向します。そして、天皇が退位するか、両親が死ぬまで、ここで斎王として暮らすのです。
 この斎王宮は神宮のある宮川の外側にあり、普段斎王が神宮の神域に立ち入ることは禁止されていたそうです。斎王といえども穢れた神域外で生まれ育ったことには変わりなく、6月・9月・12月に行われる三節祭の時のみ、神域内に入り、外宮・内宮に玉串を捧げていたそうです


 崇神天皇(すじんてんのう)の頃、天照大神(あまてらすおおみかみ)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、宮殿の中に祭られていました。けれど二柱の神を同じ場所に祭ることは不都合が多かったため、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に移して、崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせることとなりました。これが『斎王』の始まりです。斎王は神の依代(よりしろ)でもあることから、『御杖代(みつえしろ)』と呼ばれることもあります。


  垂仁天皇(すいにんてんのう)の時、老齢となった豊鍬入姫は斎王の任を退き、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)がその後を継ぎました。この倭姫は日本古代の英雄・ヤマトタケルの叔母にあたります。彼女は天照大神を鎮座させる場所を求めて、宇陀(うだ)?近江?美濃を巡り、遂に伊勢の国に至りました。ここで初めて天照大神が満足の意を表わしたので、この国に社を建て(伊勢神宮の始まり)、斎王が忌みこもるための宮を五十鈴川のほとりに建てました。これが『伊勢の斎宮』の始まりです。

 斎宮制度は伝説の時代を除くと、天武天皇(てんむてんのう)皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)から始まって南北朝に廃れるまでの約660年間続いたそうです。
 天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代します。斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限りません)の中から占いで選ばれます。大体が母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりするので、占いで決めるといっても、あまり公平な選び方ではなかったようです。

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太陽の道 北緯34度32分


 松阪の秀峰「堀坂山」の山頂は、太陽の道といわれる北緯34度32分上にあります。「太陽の道」とは、春分の日と秋分の日に太陽が通るラインのことで、このライン一帯には古墳、神社、寺が並んでいるというのです。東は、伊勢湾と太平洋の分水地の神島から西は、淡路島の伊勢の森といわれる舟木石神座まで約200キロのことをさしています。
 太陽信仰と関係も注目されるスケールの大きい発見と思います。

 日本の太陽信仰の成立には、稲作があるといいます。
稲は本来、日本には自生していない亜熱帯の植物です。稲を北限で栽培する日本では、稲作は春から秋の間の一定の期間内に行われなければなりません。
春分になると田起こしを始め、秋分になると収穫する。春分‐夏至‐秋分‐冬至という太陽の運行を知ることが、日本の太陽信仰のベースです。太陽の動きを読んで農業を指導する人を「日知り」と呼び、これが聖(ひじり)の語源です。

 外国では国旗に星や月をシンボルとして描きますが、日本は日章旗・日の丸を掲げたり、日本人はお正月には初日の出、伊勢神宮には天照大神を祭って来ました。日本人の合意の形成は、星や月ではなくてお日様だけでした。


 節分とは、季節の変わり目を意味します。立春・立夏・立秋・立冬の前日を一般的にさします。つまり年に4回あるうち、立春の前日の節分が平安期頃より特に重要視されております。天皇陛下の宮中祭祀でも、立春の節分の神事が執り行われます。
 アジアの広い地域でも、節分の前後1ヶ月間ほどの間に、旧正月(きゅうしょうがつ)と言う、西暦の正月よりも盛大に祝う春の行事が古来からあります。
 立春の節分は、太陽の位置を表す太陽横経(たいようおうけい)が約315度です。これが春分の太陽横経360度=0の起点に戻る訳です。つまり天文学的に節分は、太陽が最終コーナーを回った感じに成ります。ちなみに、夏至点の太陽は黄経90度、秋分点は黄経180度、冬至点は黄経270度となります。
 つまり節分=太陽信仰だと言う事なのです。
 神界でも重要な節目と切り替えの時が節分だと感じます。
冬至(12月23日頃)に生まれた太陽の体勢が整い、いよいよ本格的に活動をし始める時が節分です。節分を境に、自然界の植物も春分に向けて活動を実際に始めます。
神界では、隠れた「陰の正月」が冬至であり、作用を始める「陽の正月」が節分だと言えます。とても重要な時です。
そして現実界では、この神界の2つの正月の間に、現実の正月を祝う行事が転写されているのです。
 古代の人間は、穀物の栽培と収穫から一日の生活のパターンのすべてを、太陽の動きに沿わせ従う事が幸福に繋がるとしていました。これは未だに霊的にも機能している事です。
だから、私たちも今日の節分から心機一転し、春の再生に向けて自分なりに出来る「目の前の事」を努力するのは非常に良い事です。
 大きな事よりも、先ずは掃除から始めましょう。これが禊(みそぎ)と祓いと成り、霊的に助けます。節分の豆まきの心得は、その後の掃除に在ります。
まいた豆の回収時に、家内のホコリを発見する事と成ります。大晦日の年越し蕎麦の風習も、砂金を扱う職人が一年間の掃除をする時、取りにくい場所の落ちた砂金の回収に蕎麦団子を使用した事が起源だとも言われています。

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伊勢本街道 足神さん


   草鞋がぶら下がっている仏足石碑がある鍬形は丹生大師への山越えの近道となっていて左丹生大師道の道標がたっている。櫛田川の清流に沿う街道の不動院の前に地元の人が「足神さん」と呼んでいるたかさ1・5m程の自然石に刻まれた仏足石碑が立っていて、その下に「経に此相を見れば千劫の重罪を滅すと言えり」裏には「天保五年乙巳春 天阿弥陀佛」と刻まれている。
 仏足跡とは釈迦の足跡のことで、仏教が広まった頃仏像の代わりにこれを拝んだ。街道を旅した人達はここを通るとき、この「足神さん」にわらじを奉納して旅の安全を祈願した。里人は今も足の病に御利益があるとしてこの仏足石にわらじをかけている。
 碑は櫛田川対岸の広瀬・永正寺の名僧天阿人によって建てられたといわれる。

 目の前は、美しい清流の櫛田川を眺めることのできる風光明媚なところです。

  仏足石の奥にお地蔵様が綺麗に祀られています。

  自然の石に仏足が刻まれ、長い年月が経って傷んできていますが、地元の方たちによって大切に保存されているのがわかります。昔から続く伝統を絶やさず後世に語り継いでいきたいですね。

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