太陽の道 斎宮 竹神社



  太陽の道とは、北緯34度32分の線上に箸墓古墳(奈良・桜井市)を中心に東西200?にわたって古代史につながる遺跡、史跡が並んでいることを奈良の写真家、小川光三氏が発見したもので、「太陽の道」には、淡路の伊勢久留麻神社、長谷寺、三輪山、田原本の多神社、広陵の百済神社、斎宮・竹神社・祓戸、神島の八代神社が並らんでいる。三重県明和町斎宮の竹神社(竹連 タケ=「聖」)の祭神は、長白羽神で正殿は、千木が内宮(伊勢神宮)と同じ造りになっています。 

  現在の竹神社の場所は、伊勢街道(旧参宮街道)と近鉄山田線に挟まれた所にあり、正確には太陽の道上にはありません。もとは、現在の竹神社は、区画整理のために移築されたもので、もともとあった場所は、「斎王宮址」石碑の真西(!)800m、すなわち太陽の道の真上なのです。
 

 太陽の道で興味深いのは、この竹神社と奈良県桜井市の檜原神社との位置関係です。檜原神社は、第10代崇神天皇の時、京に疫病や不作が何度も起こったので、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。第11代垂仁天皇になって、天照大神を倭姫命(やまとひめのみこと)を御杖代にして託すことになった。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所を求め巡幸して、最終的に大御神の希望で、伊勢国の五十鈴川上に遷したといわれています。
 倭姫命が、天照大神の御魂を持って出発した檜原神社と斎王としてお住まいになった斎宮は、竹神社のすぐそばで、太陽の道(北緯34度32分)であることから、倭姫命の太陽の道伝説となっているようです。

 境内にある石燈籠の由緒が書かれていました。
「此自然石灯籠は池村氏神の其の一つ饗庭の森八王子の宮の常夜灯であった嘉永7年の遷宮に際し氏子が記念に造ったものである。
之を造るには当時伊勢の国で有名な自然石灯籠を各地に見学し、又伐石の採取には池村の山林中をくまなく探し求めた、殊に台石の立石に使われている石は運搬中誤って二ツ池底に転落したものを師走の寒中に池の堤に大割木を山と積み焚置いて温を取り氏子等が交代で池底にもぐり該石に縄をかけ、之を引き揚げたと撰者は祖父から聞かされている。斯様にして造りあげたという当時如何に氏子等の崇神思想の高かったことがうかがわれる。
昭和37年池村より此宮に移転した自然石燈籠としては県下で稀に見る大燈籠である。」

 竹神社のある斎宮という地名は、神宮を斎王制度が固まっていくとともに、地名も 「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数 える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を参拝せられた。「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に 麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られている。現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年 6月「斎王まつり」が行なわれます。

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本居宣長 奥墓(おくつき)



 本居宣長が亡くなったのは、1801年9月29日、現在の11月5日。落ち葉散り敷く季節であったようです。
 亡骸(なきがら)は山室の妙楽寺山頂に葬られた。当時のこの場所から木立の向こうに、松阪の町、遠く三河や、富士の頂きまでも望めたといわれています。墓石には自筆で「本居宣長之奥墓」と刻まれる。その背後にはとても好きだった山桜が植えられている。墓は概ね『遺言書』に基づき設計された。
「山室に千とせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め」。
亡くなる1年前に、門人たちとこの地に遊び、墓所を選定した時の歌である。


 本居宣長は、生前にきちんと死後の段取りを遺言していました。
・死亡してから葬送までの間の念仏は必要ではない。
 ただし宝樹院(住職の号)の仏前での勤めは構わない。
・沐浴は世間並でよろしい。
 沐浴のあとは普段のようにひげをそり、髪を結う。死装束はさらし木綿の綿入れ。 その時節の服でよい。麻の十徳(医者などが着る外出着)に木製の脇差し(小刀)。
 棺のなかにはさらし木綿の小ふとんを敷き、わらを紙に包み、棺のなかの所々に入れて遺体が動かないようにする。 棺は箱で、板は杉の六分板を用い、一度カンナで削る。棺の内外とも美濃紙を張る。
・棺は山室妙楽寺に埋葬する。夜中密かに太郎兵衛(次男)並びに門弟の1人2人でこの寺に送る。
 そのために、樹敬寺本堂までの葬列は空で送ることになったようです。

 本居宣長は、墓所を2ケ所設けるように指示していました。
 1つは世間なみの仏式の墓で、もうひとつは自分の信仰 の対象としていた神道のものである。
 仏式の墓は樹敬寺に建て、戒名も自分で「高岳院石上道啓居士」とつけ、妻の戒名もあらかじめつけて、墓石に彫るように図で示した。
 もう一つは妙楽寺に作るもので、こちらは「本居宣長の奥墓」と彫り、そこに桜の木を植えるように指示をしている。
 この墓は本人によって、死の半年前に完成させていたようです。
 妙楽寺は、樹敬寺が管理されている浄土宗のお寺さんです。

 

  ちとせの森の駐車場から、妙楽寺にお参りして、参道を登っていくとところどころに案内表示や注意書きがあって迷わずに奥墓まで行くことができますが、150mほどの上るので、坂道が続きます。結構しんどいので、ゆっくり登りましょう。
 この時期は、寒いので、階段を上ると体が温まって快調になりますね。妙楽寺までは車で行けますが、その先は特別でない限り徒歩での山登りですよ。

  
「敷島の 大和ごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」

 日本人の心とは朝日に照らされた桜のようだと桜の散りぎわの潔さを賛美した歌ですが、これを武士道と重ね合わせ,戦時中の神風特攻隊の最初の四部隊が,この歌から『敷島隊』『大和隊』『朝日隊』『山桜隊』と名付けられていました。勇気を出すために使われたようですが、本来は、和の気持ちを大切にしたものだと思われます。

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伊勢本街道 相可(おうか)


  江戸時代の相可(おうか)は、大和と伊勢を結ぶ伊勢本街道と、熊野街道に抜ける熊野道が出合う宿場としてにぎわいました。
 2つの道が交わる所には「札の辻」(道標広場)と呼ばれ、「お上(かみ)」の御触書が張り出されたといいます。
 広場には「相鹿七つ井戸三乃井」があり、かつてはここで旅人や馬が喉の乾きを潤しました。

 現在、二本の道標と井戸が保存されていて、「伊勢本街道」「右まつさかみち」「左さんぐうみち」などと刻まれています。また櫛田川は水運が大変盛んで、河口部で産出された塩はこの川を遡って上流側の大石地区や飯南へ運ばれ、山林からは、木や野菜などが行き来したようです。また、室町時代には、丹生の水銀が船で運ばれて、対岸の射和では、白粉になる軽粉が作られ全国に届けられました。

 相可は伊勢本街道・熊野街道・櫛田川水運とが交錯した、水陸交通の要地であった。櫛田川を介して相可は射和と対向する渡津集落で、熊野街道・伊勢本街道の宿場町として旅籠屋・茶屋・女郎屋が発達していた。
 現在は、両郡橋によって結ばれています。

  今も残るお餅屋さん長新の「まつかさ餅」は、黒糖を使ったあんこと、米粒がのかっている独特の餅ですが、添加物が一切ないため、すぐ固くなるので、早く食べなくてはいけません。

 相可高校の前にある椋の大木の根元に千鳥ヶ瀬・西行歌碑があります。 歌碑は万葉仮名で書かれているようですが、読むすべがなく、伊勢街道旅の本の解説によると、「疲れぬる我を友呼ぶ千鳥ヶ瀬越えて相可に旅寝こそすれ」だそうです。また、そばに境界から悪霊を追い払うという塞の神が祀られています。
 大木には、藤の弦が巻きつき石灯籠とともに名所になっています。


  三重県立相可高校は、食物調理科というユニークなクラスがあり全国でも有名になるほど活躍しています。昨年は、福井県鯖江市で開催された「第4回全国高校生食育王選手権」でチームが優勝し、3連覇を達成しました。10月には、食物調理科の3人の生徒が、茨城県で開かれた「全国産業教育フェア茨城大会・全国高校生クッキングコンテスト」で、最高賞の金賞に輝きました。ほかにも9月25日(土) オーストラリアで開催された「国際高校生料理コンクール」で2年生の金丸克士・中川寛大ペアが金メダル!得点も最高点で1位でした。
 指導にあたる村林新吾教諭を中心にレシピーを紹介した本を出したり、ラジオやテレビでも活躍しています。また、近隣地域のお祭り等にも積極的に参加してお弁当やスイーツの販売をしています。多気町五桂池にあるふるさと村には、相可高校食物料理科の生徒らがつくる「まごの店」があり、すごい人気で開店から並ぶくらいの気持ちでないと食べれないようです。週末など学校がお休みにしかオープンしていませんが同校の食物調理科の卒業生らによる弁当・総菜店「せんぱいの店」が、クリスタルタウン多気ショッピングセンター内にありますので、こちらは、毎日ご利用いただけます。

相可高校食物料理科 2010年度行事報告
http://www.mie-c.ed.jp/houka/gakka/syoku/gyouji10.html#37

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近長谷寺 初観音会


  多気町長谷の和歌山別街道から上った城山に近長谷寺(きんちょうこくじ)があります。千年以上の歴史を誇る古刹で、885年に地元の豪族「飯高宿禰諸氏」が建立した光明寺が始まりで、1690年の大雨洪水で仏閣が残らず破損したため、1694年現在の本堂が快舜によって再建され「近長谷寺」と改称されたようです。屋根は、昭和になって改修されています。
 近長谷寺には、丹生山という名がついていて、隣の丹生大師といわれる神宮寺の管理下に置かれています。

 御本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から造られたものと伝えられている)」のひとつとして広く知られ、全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものです。高さは、6.60メートル。

 1月18日は、初観音会で開帳していましたが、毎月の例祭である18日と土、日以外は、閉っていますのでくれぐれもご注意ください。なんせ駐車場から急な道を苦労して上がってきてこの十一面観音を拝めないのはさみしい限りと思います。
 二月十八日は、例大祭で厄除け祈祷、護摩法要などを行い、交通安全、学業、開運などの祈願をしに大勢の方が上ってこられます。現在、本堂前は改修中ですので、狭くなっています。


 険しい山道なので、歩きやすい靴にしてださい。昇り口には、親切に杖が置いてありますので、遠慮せずに使って少しでも楽にお参りしましょう。帰り道は、下り坂なので滑って転んだりしないように十分気を付けてください。巡礼の道は平たんばかりではないですね。

 長谷地区には、珍しい車田があります。「車田」は、文字どおり車の車輪のように円形の水田で、地域おこしの一環として5年ほど前から行われるようになったそうです。また、大きさについも「近長谷寺」の十一面観音様にちなんで、半径11メートルとしたところにもこだわりがあるようです。
 現在の全国では「車田」は、新潟県佐渡(国・無形文化財)と岐阜県高山市(市・無形文化財)にしか残っておらず、車状に植えるのは、豊作の神が降りてくる目印とも、恵みの太陽を表すともいわれています。
 この長谷の車田で取れたお米(かぐら餅)は、数キロ離れた手力男命(たぢからおのみこと)を祀る佐那神社へ献上されるほか、地元「近長谷寺」の春季大会式(2月18日)の厄払い餅投げの餅米として献上されていますので、来月の18日は餅拾いに参加しましょう。

 近長谷寺から下ってきて、集落の入り口には山の神さまが地元の方たちによってきれいにお祀りされていました。なごみますね!
 この里山の長谷は、隠れたパワースポットとして紹介したいところです。

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津城 藤堂高虎


  近江国(滋賀県甲良町)生まれ。父は「江」の父である浅井長政家臣であった藤堂虎高。母の名もおとら。 生まれた時に2倍はあろうかと言われた大柄で、成人してからは身長6尺2寸( 約188cm)体重30貫(約113kg)あったと伝えられる。
 織田・徳川連合軍との“姉川の戦い”に15歳で初陣
主家を7(10)度も変え、最後は徳川家外様筆頭として存続し、「戦の折には徳川軍の先鋒は井伊か藤堂に」と言わせるほどに、また家康・秀忠・家光の三代に仕え、江戸の町造りにもその手腕を発揮した。
「風見鶏大名」とも言われているが、体ばかりで無く、その技量・才能たるや抜群で、家康のみならず、どの大名も彼がほしかったに違いない。
 次代の権力を早く見定め、先手先手と行動する。一歩間違えば、家は断絶する戦国の世。情報網を張り巡らせ、冷静な判断力でこうと信じたことは果断即決で行動した。

 浅井氏滅亡後流浪した折、金も無く体が人一倍大きい高虎は、立ち寄った餅屋でつまみ食い、美味しさの余り20個余りも食べてしまい、「情けない! 頭を下げて謝るしかない」と思ったが、「見事な食べっぷり! 餅屋冥利につきます。お代は結構です。誠に些少ですが路銀の足しにしてください。ご武運を祈っております」との餅屋主人の言葉に、のちのち、伊勢伊賀の太守になっての大名行列の折、餅屋の親父の手を握り、持ちきれないほどの金銀を手渡したという浪曲・講談の“出世払い”の一説は有名です。

 高虎は近世城郭の名築城家としても著名であり、その力で豊臣包囲網の構築に大活躍して西国大名が豊臣家を応援できないように監視体制を敷いた。自身の城では、粉河・宇和島・大洲・甘崎・今治・津・伊賀上野。普請や奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・豊臣伏見・膳所・徳川伏見・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・徳川大坂など多数参加(朝鮮では倭城も築く)。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮や徳川家の菩提寺となる寛永寺の建立さえも高虎が携わっている。

 藤堂藩の家老の日記に、“藩祖ゆかりの餅屋で餅を食べる習わしがある”と書かれていますが、藤堂家では、旗指物を白い三つの餅にして、前記の“人の情け”を忘れないようにした、と言われています。その他に、「仁」「治」「勇」を表しているとか、白餅(しろもち)を“城持ち”に懸けて、「城持ちになれるよう手柄をたてよ」と兵を励ましたと言う愉快な説もあります

 築城ばかりでなく、江戸の街整備にも寄与した高虎の多岐にわたる才能は、津の街造りにも発揮され、宿場としても繁盛し、人馬の往来も多く、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」 と謳われたほど賑わいました。
 最も幕府の信頼厚い外様筆頭として、幕末まで転改封されること無く続いた藤堂家が、幕末最後の、“鳥羽伏見の戦い”(1868年【慶応4】正月3日開戦)の(1月6日の八幡・橋本陣地攻防戦)では、旧幕府軍として布陣したが、突如、一転して旧幕府軍に向って砲撃を開始し、新政府軍勝利の追い討ちとなり、旧幕府軍の大坂壊走を招きます。
 「次世代を担う主君を鋭く嗅ぎ取ることも、藤堂家の家訓の一つ」であり、脈々と受け継がれた結末でもあったのかもしれません。

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