本居宣長が亡くなったのは、1801年9月29日、現在の11月5日。落ち葉散り敷く季節であったようです。
亡骸(なきがら)は山室の妙楽寺山頂に葬られた。当時のこの場所から木立の向こうに、松阪の町、遠く三河や、富士の頂きまでも望めたといわれています。墓石には自筆で「本居宣長之奥墓」と刻まれる。その背後にはとても好きだった山桜が植えられている。墓は概ね『遺言書』に基づき設計された。
「山室に千とせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め」。
亡くなる1年前に、門人たちとこの地に遊び、墓所を選定した時の歌である。
本居宣長は、生前にきちんと死後の段取りを遺言していました。
・死亡してから葬送までの間の念仏は必要ではない。
ただし宝樹院(住職の号)の仏前での勤めは構わない。
・沐浴は世間並でよろしい。
沐浴のあとは普段のようにひげをそり、髪を結う。死装束はさらし木綿の綿入れ。 その時節の服でよい。麻の十徳(医者などが着る外出着)に木製の脇差し(小刀)。
棺のなかにはさらし木綿の小ふとんを敷き、わらを紙に包み、棺のなかの所々に入れて遺体が動かないようにする。 棺は箱で、板は杉の六分板を用い、一度カンナで削る。棺の内外とも美濃紙を張る。
・棺は山室妙楽寺に埋葬する。夜中密かに太郎兵衛(次男)並びに門弟の1人2人でこの寺に送る。
そのために、樹敬寺本堂までの葬列は空で送ることになったようです。
本居宣長は、墓所を2ケ所設けるように指示していました。
1つは世間なみの仏式の墓で、もうひとつは自分の信仰 の対象としていた神道のものである。
仏式の墓は樹敬寺に建て、戒名も自分で「高岳院石上道啓居士」とつけ、妻の戒名もあらかじめつけて、墓石に彫るように図で示した。
もう一つは妙楽寺に作るもので、こちらは「本居宣長の奥墓」と彫り、そこに桜の木を植えるように指示をしている。
この墓は本人によって、死の半年前に完成させていたようです。
妙楽寺は、樹敬寺が管理されている浄土宗のお寺さんです。
ちとせの森の駐車場から、妙楽寺にお参りして、参道を登っていくとところどころに案内表示や注意書きがあって迷わずに奥墓まで行くことができますが、150mほどの上るので、坂道が続きます。結構しんどいので、ゆっくり登りましょう。
この時期は、寒いので、階段を上ると体が温まって快調になりますね。妙楽寺までは車で行けますが、その先は特別でない限り徒歩での山登りですよ。
「敷島の 大和ごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
日本人の心とは朝日に照らされた桜のようだと桜の散りぎわの潔さを賛美した歌ですが、これを武士道と重ね合わせ,戦時中の神風特攻隊の最初の四部隊が,この歌から『敷島隊』『大和隊』『朝日隊』『山桜隊』と名付けられていました。勇気を出すために使われたようですが、本来は、和の気持ちを大切にしたものだと思われます。
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