東北で地震


  11日午後2時46分、東北太平洋でマグニチュード8.8の巨大地震が発生しました。(その後、マグニチュード9.0に上方修正)宮城県栗原市で、震度7の烈震を記録し北海道から近畿地方まで広い範囲で揺れを感じ、特に宮城県、福島県、岩手県では、震度6以上で甚大な被害が出ています。また、大津波警報が発令され、仙台新港では、10mの大津波が観測されました。三陸海岸の陸前高田市は、町全体が壊滅するほどの津波に襲われるなど、各地に大津波の被害が出ています。北海道から沖縄まで大津波警報と津波警報が発令されています。
 この地震は、強大な余震も伴っていて、関東から東北にかけて1000人以上の死者と行方不明が出ていて、大変な状況になっています。
 亡くなら多くの人に哀悼の意を、災害にあわれた方には、心からお見舞い申し上げます。困っている方々に何をすべきか考えましょう。これからも自然との共存を考えていきたいと思います。

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参宮街道 月本追分?六軒茶屋


  松阪市六軒町は、伊勢音頭に「明日はお立ちか、お名残おしゅうや、六軒茶屋まで送りましょう。六軒茶屋の曲がりとで・・」と歌われた町です。
  三渡川の南側にある「いがごへ追分」は、参宮街道と初瀬(はせ)街道の追分である。初瀬街道は伊勢と大和・京方面を結ぶ街道で、初瀬(長谷)から名張、青山峠を越え、いがごえ追分で伊勢街道へ通じる。
 道標の銘文には「やまとめぐりかうや道」「右いせみち六軒茶屋」「大和七在所順道(やまとしちざいしょじゅんみち)」とある。大和七在所順道とは大和国(奈良県)の七つの名所・寺社だけではなく、畿内の河内・和泉・摂津・山城の名所・寺社を巡る道です。


  三渡川は、川を渡るとき伊勢湾の潮の干満により通過地点が3ヶ所(上の渡、中の渡、下の渡)あったためこの地名が付けられました。
 道の反対側には、大阪の人が二反半の田を付けて寄進したといわれる、文政元年(1818)建立の常夜燈があり、常夜燈の反対側の空き地のところに伊勢講の常宿として繁盛した旅籠磯部屋があったようです。 

  月本追分は現在の松阪市中林町の枝郷にあり、参宮街道と奈良街道との分岐点である。現在の月本の道標は江戸時代後期に建てられたもので、東面に「月本おひわけ」、西面に「右さんぐうみち」、北面に「右いかご江なら道」、南面に「左やまと七在所順道」と刻まれている。この道標は高さ3.1mで参宮街道最大のものである。
 この追分には角屋、村田屋、錦屋などの立場茶屋や煮売屋があり、近くには古くから月読社が勧請されており、月読社の本の集落という意味で「月本」という名前が付いたと言われている。


  二つの街道が合流する月本の追分では、役人の常駐する立場があり、旅人を相手にする旅籠や支度店が軒を並べており大変な賑わいを呈していたようです。
 天保年間に建立されのちに明治3年11月に再建された常夜燈(高さ6m)が今も残っており、往時の名残をとどめています。

  このあたりには、たくさんの道標や石燈籠を見ることができますので、歴史を感じながらの散策にいいところです。20年前に第61回神宮御遷宮を記念して地元の人が建てた道標と燈籠があります。

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  庚申堂と山の神そして道標が並ぶ参宮街道(伊勢街道)です。


参宮街道 妻入り格子戸の町屋


 松阪市市場庄は、妻入町屋がほとんどで、参宮街道沿いに20軒近く残っています。妻入町屋は軒を道に直交させ、道側に主要な出入り口を設けたものです。これは、伊勢神宮内宮前のおはらい町の家々と同じタイプです。しかし、隣接する六軒や松阪の家並みは妻入ではなく、反対の平入りということなので、市場庄だけが独立していることになります。
 格子戸は古くは明和年間(1764?1772)、新しいものでは大正初期という。お盆と正月前になると、各家のお嫁さんらが一本ずつせっせと拭いて磨き上げています。これは、女性たちが伝えてきた習慣です。

  いちのや(宇野家住宅)は、大正三年(1914)に宇野家の別宅として建てられたもので、建物は切妻造り妻入り形式で、そこに庇屋根を付け、通りに面した側には大きな出格子を付けている。 内部は、北側に店、中間、仏間、屋敷が一列に並んでいる。 明治以前のこの地区の町屋で見られる摺り上げ戸から出格子戸への過渡期の建物である。 この変化は宿場町から農村集落へと市場庄町が性格を変えてきた明治中期から大正初期ともほぼ一致している。

  切妻造り、連子格子に出格子、雁木のある家「いちのや」は、市民グループの「格子戸の会」が市からの援助で管理・運営してきました。松阪市は、個人所有物の維持に公費を出すことが、問題視されるようになったため、所有者との契約の打ち切りを決めました。会では、存続を望んでいますが、3月の期限切れが迫ってきています。

  市場庄は、もともと零細な農村に過ぎなかったようで、往来の増加で次第に商業町的な意味合いを帯びていったものと思われる。参宮者の土産物屋や旅装束を商う店が並んでいたといわれ、背後に畑地や田地を持ち農業で生計を立てながらも、旅人相手の商売が盛んに行われていったのだろう。「市場文楽」などともてはやされた娯楽や浄瑠璃なども上演されたといい、旅の者のみならず近隣住民にも魅力的なところだったらしい。
 参宮街道に沿い線状に続く町並は、隣との取合いに適度な余裕があって、都市型の町並のようにぎすぎすした感じでないのも、もともとは農村集落だったことを感じさせます。
 ぞうりや、石安、磯八、かご兵…、軒には屋号を記した木札がかかっています。町づくりグループ・格子戸の会が調査し、制作したものです。屋号は職業・出身地・先祖の名などにちなんでつけられ、専業農家にはありません。例えば、仙台屋さんは仙台出身で、お伊勢参りに来て、そのまま市場庄の娘と結婚し住まうようになったという。屋号を見て歩くと、家々から歴史を醸し出しているように感じます。

  街道沿いにある「忘井之道」の道標を少し行くと、忘れ井と山神が祀られています。「忘れ井」は、斎王といわれる鳥羽天皇の、(1100年代)皇女(恂子内親王)が斎王として伊勢の斎宮に向かう途中この井戸に水を求めよった際、甲斐という女官が詠んだ「別れ行く都の方の恋しきに いざ結びみむ忘れ井の水」という詩から「忘井」の名が付いたとされている。
 水に写った自分の顔をみて、都への思いを断ち切らなければとの、おもいで詠まれたようです。


  斎王の群行(ぐんこう)に加わり、京の都に別れていきますが、都の方が恋しくてなりません。「忘井の水(わすれいのみず)」を飲めばきっと都のことを忘れるかもしれません。さあ、「忘井の水」を手で掬って(すくって)飲みましょう・・・・
 一見、華やかな群行ではあっても、斎王の胸中には、神に仕えることの晴れがましさよりも、住み慣れた都や親しい人々との別れの悲しさが強かったかもしれない。斎王だけでなく、それに従う女官ともなれば、その想いはいっそう募ったことなのでしょう。

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纏向遺跡の古墳群


  大和盆地東南部の三輪山山麓には、巨大な前方後円墳群があります。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1?2キロの間隔で並んでいます。
 これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓(はしはか)のある纏向(まきむく)遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。
 また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。

  卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳よりも前に造られています。
 『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。 倭迹迹日百襲姫は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようです。
  倭迹迹日百襲姫は、大物主神の妻となったが、大物主神は夜しか訪れないため、姿をはっきりと見ることができなかった。
 そこで、姫は朝までいて姿を見せて欲しいと懇願すると、妻の願いを聞き入れた神は、「明日の朝、櫛箱の中にいる。自分の姿を見ても決して驚くな」という。
 翌朝、櫛箱の中にいたのは、下紐ほどの小さくて美しい蛇であった。姫は驚いて声を上げてしまう。
 大物主神は、恥じて人の姿に戻り、姫を恨んで「おまえにも恥をかかせてやる」といって、空へ上って三輪山へ帰ってしまった。
 姫は後悔して座り込んだところ、箸が陰部に刺さって死んでしまった。そこから箸墓という名がついたようです。
 この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の巫女(シャーマン)的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓古墳は、十分な存在感と神秘性をもっています。


  箸墓古墳は、全長276mの前方後円墳で、大きさでは全国で11番目、奈良県下では3番目の規模の大きな古墳であります。
  前方部が撥(ばち)形に開く墳形を持ち、一般の円筒埴輪が見られず、特殊器台形埴輪・特殊壺形土器を持つなど最古式の古墳の特徴を持つ。 
  北緯34度32分の太陽の道は、箸墓古墳の中心を通って東西に繋がっていて、古代から太陽信仰の跡となっているものです。また、太陽の道に沿っては、日置・弊岐・戸岐・戸木・部木・引・疋・曳など、「ひき」又は「へき」と呼ばれる太陽と関係のある地名が多いということです。


  纏向石塚古墳は、古墳時代前期初頭の3世紀前半頃のもので日本最古の前方後円墳とされています。
  前方後円墳、全長96m、前方部長約32m・巾約34m、くびれ部巾約12.8m、周濠巾約20m、葺石・埴輪無。埋葬部詳細不明ですが、石材未確認なので木槨または木棺直葬と推定されます。周濠から弧紋円盤・鶏形木製品・鋤・鍬・横槌・水槽・建築部材等木製品が出土。
 弧紋円盤は、吉備地方にルーツをもつとされる、直線と曲線の組み合わせ紋様を持つ、木製の埴輪です。

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天照大神の神人分離


  崇神天皇6年(紀元前92年)、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。これを神人分離という。
 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年(紀元前5年)に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
 崇神天皇7年(紀元前91年)2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となりました。

  第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿(どうしょうきょうでん)」にお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの檜原の地であり、大御神の伊勢御遷幸ののちもその御蹟を尊崇し、檜原神社として天照大神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。

  大神神社の摂社「檜原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)」(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。

  檜原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
  三輪山がご神体ですから三ツ鳥居があるだけで、本殿は持っていません。

  大和では、三輪山が聖なる山とされていて、ここは、「太陽の道」といわれる北緯34度32分のライン上にいくつかの山や神社、寺、遺跡などが存在するところを春分の日と秋分の日に真上を太陽が通ることから太陽信仰の象徴と言えるでしょう。檜原神社もこのライン上にあります。
  東は、伊勢湾の入り口にある「神島」でここから太陽が昇るとされ、斎王宮を通り、堀坂山から美杉、室生寺、長谷寺を経て三輪山、檜原神社と来て、卑弥呼の墓といわれている箸墓古墳を通り西へ、二上山そして日本武尊が白鳥になって飛んで行ったといわれる「大鳥神社」から淡路島の伊勢の森までが太陽の道と呼ばれているところです。

  「三輪山」を中心にして、真東に103キロ行ったところに神島があり、真西に80キロ行ったところが淡路島北淡町の伊勢の森。この伊勢(遠いところという意味)を結ぶ北緯34度32分の上に、ほぼ3キロの等間隔に神社(それも天神を祭った神社)や遺跡(巨石)が並ぶといいいます。天神を祭るということは、太陽信仰ということ。真東は陽が昇り、真西は陽が沈む。つまり、産まれる所と死ぬところの象徴です。

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