四日市市追分にある日永の追分は、東海道と伊勢街道(参宮街道)の分岐点にあります。道標は、嘉永2年(1849年)建立。「左いせ参宮道」「右京大坂道」「すぐ江戸道」とあります。 旧道標は、明暦2年(1656年)建立で、現在は日永神社に移転されていて、「京」「山田」「南無阿弥陀仏 恵心」とあります。
伊勢神宮、二の鳥居が建てられています。安永3年(1774年)の建立以来、伊勢神宮式年遷宮毎に神宮の古材を使って建て替えられています。
常夜燈は、安永3年(1774)建立。この場所には水場がありペットボトルなどをたくさん持った人がひっきりなしに訪れていました。
日永の追分は、間の宿(あいのしゅく)がありました。江戸幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場と宿場の間に休憩用の「宿」が置かれることがあり、「間の宿」と呼ばれました。
東海道沿いでは、小田原-箱根間の「畑宿」、由比-興津間の「倉沢」、池鯉鮒-鳴海間の「有松」などが間の宿としての町並みを残しています。
十返舎一九の弥次北道中記に四日市の旅宿での騒動がある。
宿の女中に夜這いしようと、弥次郎兵衛がさぐりにいくうち棚板をはずしそうになった。北八に持ってもらって、目指す女中に触ってみると石の地蔵であった。
下の広重の絵に「はひかけし地蔵の顔も三度笠 またかぶりたる首尾の悪さよ」の狂歌があります。