別世界のホテル


  南紀白浜温泉にあるホテル川久は、海に浮かぶように建つ城のような豪華ホテルです。テーマは「別世界」ということで、白浜の温泉街にはマッチしていないかもしれません。
  20年前、バブル期に会員制として作られたホテルは、今では考えられないような贅沢な建材を使って、贅の限りを尽くした建物です。
  中華風、欧州風、イスラム風と混ざり合った建造は、色々なテイストが不思議なハーモニーを造り出しています。

  ホテルに入ると、広い中央ロビー、床のモザイクの素晴らしさはさることながら、高い天井ドームを支える立派な柱、この青い高そうな人口の大理石柱、1本で1.5億円だそう。それが26本もます。
床のモザイクはイタリアから職人を呼んで手作業で作られたもの、天井はフランスから職人を呼んでこれまた一枚づつ金箔(それも22.5金という純度の高さ)を貼り付けたものだそうです。外装の煉瓦はイギリス製、レストランのフレスコ画はイタリア人画家のもの、壁には2世紀頃に作られたアンティークビザンチンモザイク、などなど、とホテルのどの場所を見ても、とにかく今では絶対に造れない、恐ろしいこだわりようです。

  お部屋が全てスイートルームであることや、お料理が豪華なことなど宿泊施設としての高級感を持たせているようです。少し気になるのは、あまりにも広いのと特別品が多いので、メンテナンスが大変なようで、一部に輝きがなくなっているのが残念です。しかし、多くのプロの技が散りばめられた建物自体には、素晴らしい価値があるように感じます。丹精込めて仕上げられた、まさに芸術品です。

  白浜温泉で名門と言われた「旅館川久」は、1949年に創業し、昭和天皇も宿泊した木造純和風であった建物を建て替えることになり、安間氏の親族の間で鉄筋にするか木造の和風の旅館にするかで論争になり、結局のところ、鉄筋の建物になったとのことです。
 当時は世の中はバブル経済のまっただ中であり、川久の建物も約400億円をかけて安間氏が創った。しかも ホテルは会員制のホテルで、会員であっても一泊の値段はかなり高額であったようです。しかし、バブルであったのでお客様もたくさんきていたとのことでありましたが、バブルがはじけて、?川久は破産してしまいました。1999年北海道を地盤とするホテルグループの?カラカミがこのホテルを買収し、子会社としたので、現在は、会員でなくても宿泊でき、平日なら安いパッケージプランもあります。一度、別世界をご体験ください。

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櫛の伝説


 櫛伝説とは、皇女「倭姫命」が第11代垂仁天皇の命を受け、皇祖神「天照大神」の鎮座地を求めて諸国を巡行されていたとき、倭姫命が「竹田の国」と呼んでいた地で頭に飾していた櫛を落とされたので、その地に櫛田神社を定め、櫛田という地名もそこから起こったとされます。また、曲がっていることをクシ、クネと呼ぶことから名付けられたとも言われています。

  櫛田神社には、2006年の9月4日(櫛の日)に三重県美容業生活衛生同業組合さんによって建立された「櫛の碑」が、神社前にあります。全国の理美容関係者から信仰があるようです。いつもお花が置いてあり和みます。

  社伝では垂仁天皇22年(紀元前8年)に倭姫命が天照大神を祀る場所を探す旅の途中でこの地を案内した大若子命を祀るために創建されたとされる。江戸時代の明暦頃に社殿も失われ中絶となったが、享保年間に再興された。
 翌明治41年(1908年)2月11日に山添町の神山神社に合祀されていましたが、櫛田の氏子たちが分祀を希望し、昭和8年(1933年)2月1日に現社地に分祠されました。

  ご祭神は、大若子命・櫛玉姫命・須佐之男・天忍穂耳・市杵島姫です。


  福岡市の博多の繁華街にある櫛田神社は、天平宝字元年(757)に、松阪市の櫛田神社より、大幡主大神 (おおはたぬしのみこと)を勧請し、創建されたと伝えられている。社殿の中殿に大幡主大神、右殿には天照皇大神、左殿に素盞鳴大神が祀られています。
 本家、松阪より有名なこの神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めていて、7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっている。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれています。九州に行かれたらぜひ参拝してください。

  松阪の櫛田神社は、小さくてこじんまりしていますが、きれいに掃除がされ、お花が置かれているので、気持ちよくお参りができます。

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勇気をいただく荒祭宮


  伊勢神宮・内宮において御正宮の次とされる、別宮(わけみや)第一位の「荒祭宮(あらまつりのみや)」は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)をおまつりしています。祭事や供物も御正宮に準じて行われます。「皇太神宮儀式帳」によれば、創建は西暦804年以前で、神明造となっています。ご祭神は、「天照坐皇大御神荒御魂」(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)です。

  伊勢神宮(正式名は神宮)は別宮、摂社など125の宮社がありますが、皇大神宮、御正宮を参拝したら第1の別宮である荒祭宮に必ずお参りしてください。外宮第1別宮の多賀宮(たかのみや)とともに14ある別宮のなかでも別格の扱いです。荒祭宮が別格である証拠になるのかわかりませんが、ここには、鳥居がないのです。


  内宮の敷地は広大ですが、御正宮の参拝から参道をもどり、巨大な杉の大木の方へと右に入ると、御稲御倉(みしねのみくら)があり、ついでつきあたりの外幣殿(げへいでん)を過ぎると、正宮の裏側(北側)に出ます。さらに進むと左手に下りの石階があり、「踏まぬ石」を捜しながらここを降りると前方やや小高い場所に荒祭宮を仰ぎ見ることができます。少しアップダウンがありますが、この場所を通ると、大きな木々に圧倒されつつ玉砂利を歩く心地よさに深呼吸します。そして、清々しい空気につつまれながら、神様と自然への感謝をすることになります。

  御正宮の裏側から、荒祭宮に向かって55段の下る階段がありますが、上から41段目中央のところに「踏まぬ石」があります。天という字に見えるので、天から降ってきたという説もありますが定かではありません。通常、神宮あるいは神社においては、中央は神様の通り道といわれていて、私たちは左右に避けて歩く事が望ましいとされていますので、踏むことはないと思います。すごくパワーがあるということはないのですが、気を付けて探してください。なにか得をした気分になります。

  荒御魂は、御正宮に祀られている穏やかな「和御魂(にぎみたま)」に対し、活動的で積極的なはたらきをされる御魂です。新しいことを始める時や困ったことがある時に前向きな力や勇気をいただきたいと願い人がお参りするといいでしょう。御正宮では日々生かされていることに感謝をし、荒祭宮でお願いをするのがいいと思います。

  日本独特の人と人の心を表現に、一霊四魂(いちれいしこん)があります。
 一霊とは、「直霊」と書き「なおひ」と読みます。四魂とは、「荒魂・和魂・幸魂・奇魂」のことです。読み方はいろいろありますが、「あらみたま・にぎみたま・さきみたま・くしみたま」か「あらたま・にぎたま・さきたま・くしたま」でしょう。
 「荒魂」は、「破壊」「創造」「再生」を現し、「新魂」とも通じる。
 「和魂」は、「幸魂」と「奇魂」の性格を持ち表現される。
 「幸魂」とは、運を導き幸に転ずる力・働きを表現される。
 「奇魂」とは、人を奇跡で導き直接的に幸に転ずる力・働きを表現する。
 これら四つの性格は、「荒魂=和魂=幸魂=奇魂」の並列の存在関係です。(これは性格が同等というのではなく、その位階が、価値が同等と云う意味です。
 荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊(なおひ)がコントロールしているとのことで、勇は、前に進む力、親は、人と親しく交わる力、愛は、人を愛し育てる力、智は、物事を観察し分析し、悟る力といことになります。

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和妙・荒妙 機殿神社


  松阪市の東部、斎宮に近いところに、太古の昔から変わらぬ姿であり続ける神の森があります。ここには、伊勢神宮で春と秋に行われる「神御衣祭(かんみそさい)」にそなえられる絹布(和妙・にぎたえ)と麻布(荒妙・あらたえ)を織る二つの機殿神社(はたどのじんじゃ)があります。

  荒妙を織るのが、神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)で地元では、上機殿(かみはたでん)や上館(かみたち)さんと親しく呼ばれています。内宮が所管社である神麻続機殿神社と同神社末社八所がご鎮座になっています。本殿の隣に萱葺で、千木、鰹木のある八尋殿があり、この殿内で荒妙(あらたえ、麻布)が奉織され、五月と十月の十四日、皇大神宮及び荒祭宮で行われる神御衣祭に、この八尋殿で奉織された荒妙と、神服織機殿神社の八尋殿で奉織された和妙(にぎたえ、絹布)がたてまつられる。神宮神職が五月と十月の一日から十三日まで両神社に各一人参向し、地元の青年が古い伝統のままに奉織を奉仕します。神麻続機殿神社は、御機殿(八尋殿)の鎮守の神をおまつりしているのです。


  田園が広がる中にこんもりとした森が印象的ですが、楠や杉の大樹が茂っていて、普段はほとんど人気がないので、広い空間を独り占めできるのが贅沢な感じです。ご神木の大楠は、、樹高35m、目通り幹周4.97mと記されています。

  麻布(荒妙)を織る上機殿に対して、3kmほど離れた神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は、絹布(和妙)を織ります。地元では、下機殿(しもはたでん)や下館(しもだち)と呼ばれています。

  斎庭のつくりは、上機殿とよく似ていて、鳥居の正面が八尋殿、その左に機殿神社、ほか末社八所が鎮座しています。お参りの順番は、神服織機殿神社に参拝、左を向き末社2所に参拝、振り向いて末社4所に参拝。実際末社は8所ですが、残りの2所は神服織機殿神社の御垣の内側にあるので、遥拝しましょう。


  室町時代から戦国時代にかけて機殿神社は、荒れてしまい、伊勢神宮から管理されなくなってしまいました。江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。しかし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月のようです。
 享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主、藤堂高敏の寄進により両機殿が修理されました。

  一番大きい社が八尋殿で、その左が本殿になり、御垣内には、小さな末社が鎮まっています。

  毎年5月と10月の初旬、両機殿の八尋殿で皇太神宮正宮と別宮の荒祭宮での神御衣祭に供える御衣を奉織する。地元で「おんぞさん」と呼ばれるこの行事は戦国時代に途絶えましたが、明治の終わりごろから奉織が愛知県木曽川町で復活しました。機殿地区の人は、任せきりでは、いけないと感じ機織りの技術を習得し、伝承することにしました。1967年(昭和42年)以降、和妙は祖父らから継承された女性が奉織することになりましたが、荒妙は現在も男性が奉織しています。松阪市は1975年(昭和50年)9月27日、和妙と荒妙の奉織を「御衣奉織行事」として無形民俗文化財に指定しました。
 地元住民による両機殿での奉織は神御衣祭に必要な和妙36匹(正宮24匹、荒祭宮12匹)と荒妙120匹(正宮80匹、荒祭宮40匹)のうちの各1匹のみです。


  江戸時代、このあたりでは、綿織物が多く作られ松阪木綿 伊勢木綿として、江戸をはじめ全国で売られました。松阪商人の三井高利は、江戸・日本橋の越後屋で松阪木綿を現金掛値なしで商売をし、粋な江戸の人たちに大いに受け入れられました。このあたりの地名には、機殿、御糸、服部など織物にちなむ地名があります。


  鎮守の森は、心を癒してくれる身近な聖地です。これからの少し暖かくなったら出かけしてみてください。

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松阪牛、女王の品格


  松阪牛は、三重県松阪市及びその近郊で肥育される黒毛和種。「まつさかうし、まつざかうし、まつさかぎゅう、まつざかぎゅう」と様々に呼ばれております。その中でも典型的な松阪牛は但馬地方(兵庫県)より、生後7ヶ月?8ヶ月ほどの選び抜いた子牛を導入し、約3年間、農家の手で1頭1頭手塩にかけ、稲わら、大麦、ふすま、大豆粕などを中心に与えながら肥育されます。
  松阪牛協議会の定義によると、生産区域が「旧22市町村と旧松阪肉牛生産者の会会員」(市町村数は2004年11月1日現在)で、対象牛は「松阪牛個体識別管理システムに登録された黒毛和種、未経産の雌牛」、肥育期間は「生産区域での肥育期間が最長・最終」であり、「牛肉枝肉格付をするなどシステムの条件を満たし出荷されたもの」と定められています。

  日本だけでなく、世界にその名を誇るブランド「松阪牛」。歴史を古くさかのぼると、生産者や関係者たちの努力の結晶であることは言うまでもありません。長い歳月をかけてゆっくり、じっくり築きあげられたブランド=宝物をこれからも大切にしていきたいですね。

  牛肉がここまで日本人に受け入れられたのが明治の文明開化による食に対する嗜好の変化です。当時大流行したのが「牛鍋」というもので、現在のすき焼きの始まりとされますが、材料はぶつ切りにした牛肉と五分(約1.5cm)の長さに切り揃えたネギのみで、これらを鉄鍋で焼き、最初のうちは割り下を用いず、牡丹鍋(イノシシ肉を用いる)風に味噌仕立てにしていたそうです。牛鍋は東京から全国へと一時広まっていきましたが、牛鍋屋の後には、関西から「すき焼き」が広まり、現在は、すき焼きという呼び名が全国共通となっています。

  松阪牛を全国に広めたのは、東京での販路を拡大するために松阪近隣から牛を集め、汽車も自動車もない明治5年(1872年)より始まり、同10年(1877年)以降はほとんど隔月に行なわれ、二十数年間にもおよび徒歩で一路東京を目指した、故山路徳三郎氏による「牛追い道中」と呼ばれる大行進がきっかけです。
  その後は、鉄道の発達による大型貨車輸送の開始も始まり、美味しさの研究をして、妥協しない良質の松阪牛を鹿鳴館や高級料理店などに貨車で送り続けていたのです。このことから、松阪地方の肉牛の優秀性が当時から東京で認められ全国そして世界から肉の芸術品「松阪牛」と言われるようになりました。

  松阪牛は、昭和10年(1935年)東京の芝浦で開催された全国肉用畜産博覧会で最高の「名誉賞」を獲得しました。そして昭和33年(1958年)には、松阪地方の出荷業者と東京の食肉業者が集まって「松阪肉牛協会」を創設、松阪肉流通の基礎を築くとともに、この頃から松阪肉は高級肉として東京を中心にその名声を高め、松阪肉牛のブランドを確固たるものとしたようです。
 昭和49年(1974年)からは松阪肉牛共進会の導入登録の際、牛の1頭1頭に「耳標」(耳につける番号札)をつけて個体を厳しく管理するようになりました。現在の国の家畜個体識別システムの先駆けと言えます。


  松本牧場さんは、毎朝4時過ぎから牛の世話をして1年中休みなしで、1頭1頭惜しみなく世話を続け、伝統を守りつつ工夫を重ねながら「松阪牛」というブランドを築き上げています。地道な仕事が大きな成果を出します。

  平成20年の松阪牛の競り市『松阪肉牛共進会』で、松阪牛のチャンピオンである最優秀1席を「としのぶ」号で獲得しました。現在、松阪駅前の観光情報センターでは、土、日、祭日この牛のパネルで記念写真が撮れます。記念に是非どうぞ!

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