二つの八大龍王社


  夫婦岩から東参道を100mほどで、龍宮社があります。御祭神は、綿津見大神(わたつみのおおかみ)で海の守護神として厚い信仰を受けています。美しい朱色の社殿が海と岩にマッチしています。


  八大龍王は、仏法を守る八体の竜神で、難陀・跋難陀・娑迦羅・和修吉(わしゆきつ)・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅の称です。雨や水に関係するとされることが多いですね。


  龍宮社のいわれについて書かれている案内があります。

  伊勢志摩を代表する霊山として知られる朝熊岳の山頂にも八大龍王社が祀られていて、二見と同じ北緯136度47分なのは何かの縁でしょう。ここからの眺めは最高で、特に東側の展望が素晴らしく、伊勢湾に浮かぶ島々、遠くには恵那山や南アルプスの山なみ、そして富士山を見ることができます。同じ緯度の山頂と海辺に八大龍王を祀るパワースポットです。


駒場の洋館と庭園


水の神様が棲まう島


  竹生島宝厳寺(ほうごんじ)は、神亀元年(724)聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神より「江州(こうしゅう)の湖中に小島がある。その島は弁財天の聖地であるから、寺院を建立せよ。さすれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧の行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
 行基は早速、弁財天像を彫刻し、本尊として本堂に安置。翌年には観音堂を建立し、千手観音像を安置した。これが現在の西国三十三観音霊場第三十番札所の観音堂(重要文化財)とです。

  観音堂の唐門は、慶長七年(1602年)には、太閤豊臣秀吉の遺命により、秀頼が豊国廟より移築された豪華絢爛といわれる桃山様式の唐門の代表的遺構で、内部は千手観世音菩薩を納めた観音堂です。

  明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁は、この宝厳寺を廃寺とし神社に改めよという命令が下りましたが、全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなり本堂のないままに仮安置されていました。そして昭和17年、現在の弁財天本堂が再建され鎮座されています。


  毎月15日は弁財天様のご縁日です。弁財天様は古来より「芸能向上」「商売繁盛」の御徳が大きいと言われています。又、ご縁日にご祈願をすれば、その願いはより成就すると伝えられています。


  お堂の中には、お守りやお札とともに、願い事を書い紙をつめてある小さい「だるま」が奉納されているのが目に入ります。

  弁財天本堂の前では、不動明王様がお守りされています。


  本堂正面の石段を登ったところに三重塔と宝物殿があります。三重塔は、1484年に建立され、江戸時代初頭に落雷で焼失。約350年間にわたって不在であったが平成12年(2000年)に再建されたものです。宝物殿には、弁財天様や貴重な書物が展示されています。現在の大河ドラマでも紹介されたように、浅井家では弁財天を深く信仰しており、茶々や江は竹生島に度々、使者を派遣して祈願をさせたといいます。

  空海や最澄も宝厳寺へ修行に訪れた記録があります。古来より多くの僧侶や武士など多くの人々が信仰の島として巡礼に訪れています。

  宝厳寺本殿までは、港から「祈りの石段」と呼ばれる165段の長い石段が続いています。
 この地で修行を積んだといわれる弘法大師直筆の書や、かつて長浜を領地とした豊臣秀吉が書いた書状など、見どころ満載です。
 竹生島神社の神殿は、きらびやかな装飾が施された建物で、秀吉が当時の粋を集めて作ったと言われています。
 日本三大弁財天の1つ大弁財天を祀る宝厳寺や、竹生島神社があり、かつて浅井家だけでなく織田信長や豊臣秀吉など、戦国大名も参拝したという霊験あらたかな島でもあります。

  長浜、彦根、今津など船で30分ほどのクルージングを楽しみ、聖地、竹生島でパワーをいただきましょう。
 <※入島料として、おとな400円、子ども300円が船代のほか必要です>

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エナジー列島!中央構造線


  3月11日に東北地方関東大震災に見舞われましたが、世界でも有数のエナジーフィールドを持つ日本列島で最大規模の断層と言われるのが、中央構造線です。この断層に周辺には、日本の多くの聖地があります。
 断層というとやはり地震のことを思います。断層が動けば被害をもたらす大きな揺れを伴うこともあります。大自然には情がありません。しかし、地球という大フィールドから見れば「普通の営み」なのです。

  中央構造線は、九州の阿蘇山から四国の石鎚山そして紀伊半島では、高野山、三輪山、櫛田川沿いを伊勢、二見が浦へ。それから伊良湖岬から天竜川を通り諏訪へ至り、東へ向かい大宮市の氷川神社から鹿島神宮で太平洋へ出る赤いラインが日本最大の断層です。大地から、地球の巨大なエネルギーがいいレベルで放出されていると考えられています。
 その中央構造線を歩いたのが空海です。遍路で有名な「四国八十八か所」。中央構造線に沿って空海由来の真言密教の寺と鉱山が多くあります。空海の右手の錫しゃく杖じょうは、鉱山師の持つ錫杖と同じといいます。
  

  高野山開山にあたり、空海を導いたのが、「丹生都比売(にうつひめ)」。丹生は「辰砂」。辰砂は「水銀朱」といわれ、水銀の原料である。紀伊半島には、丹生のつく名が多く存在します。
  金の出るところに水銀は必ずあるという。反対に、水銀のあるところに必ず金があるとはいえない。修験者たちは、不老不死の薬・錬金術的存在「丹生( 辰砂・水銀)」を求めて、山に入った。山のどこに行けば、どんな薬草があるか。どこに辰砂があるか。各所を歩いた結果、中央構造線である断層部に注目したのです。

  松阪の郊外の多気町丹生もまた、中央構造線の断層があるところです。奈良時代には、有数の水銀の生産地で、奈良の大仏さんの建立にこの地から運ばれ、伽藍の完成でこの地は大いに繁栄しました。空海(弘法大師)は、唐から帰国して6年後の弘仁元年(810年)、ここに立ち寄り、5年後の815年に、神宮寺のお堂・七堂伽藍を建立したといいます。

  当時の水銀抗は、山の頂から中心部に向って斜めに掘り進んでいて、坑道は鉱脈の部分のみを採掘した「狸掘り」という方法であったようです。現存する旧抗はおおよそ100箇所近くあると言われ中でも最も大きいのが現存する洞口といいます。
 室町時代から段々衰退に向っていったが、丹生水銀から射和軽粉・松阪商人・江戸の伊勢店とその活力が伝えられていったとも言われている。
 昭和40年代になって、斜距離で地下165mまで掘り下げ豊富な鉱脈が発見され掘り出されたが、今は中止されたままで、丹生の水銀は今も地下に眠っているようです。


  今も坑道跡と製錬器が残されていますので、見ることができます。丹生のお大師さんにお参りして、「まめや」という地元の野菜など食材を使ったバイキングスタイルのレストランも人気ですので、お訪ね下さい。立梅用水沿いにアジサイがたくさん咲く6月がおすすめです。

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纏向遺跡の古墳群


  大和盆地東南部の三輪山山麓には、巨大な前方後円墳群があります。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1?2キロの間隔で並んでいます。
 これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓(はしはか)のある纏向(まきむく)遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。
 また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。

  卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳よりも前に造られています。
 『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。 倭迹迹日百襲姫は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようです。
  倭迹迹日百襲姫は、大物主神の妻となったが、大物主神は夜しか訪れないため、姿をはっきりと見ることができなかった。
 そこで、姫は朝までいて姿を見せて欲しいと懇願すると、妻の願いを聞き入れた神は、「明日の朝、櫛箱の中にいる。自分の姿を見ても決して驚くな」という。
 翌朝、櫛箱の中にいたのは、下紐ほどの小さくて美しい蛇であった。姫は驚いて声を上げてしまう。
 大物主神は、恥じて人の姿に戻り、姫を恨んで「おまえにも恥をかかせてやる」といって、空へ上って三輪山へ帰ってしまった。
 姫は後悔して座り込んだところ、箸が陰部に刺さって死んでしまった。そこから箸墓という名がついたようです。
 この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の巫女(シャーマン)的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓古墳は、十分な存在感と神秘性をもっています。


  箸墓古墳は、全長276mの前方後円墳で、大きさでは全国で11番目、奈良県下では3番目の規模の大きな古墳であります。
  前方部が撥(ばち)形に開く墳形を持ち、一般の円筒埴輪が見られず、特殊器台形埴輪・特殊壺形土器を持つなど最古式の古墳の特徴を持つ。 
  北緯34度32分の太陽の道は、箸墓古墳の中心を通って東西に繋がっていて、古代から太陽信仰の跡となっているものです。また、太陽の道に沿っては、日置・弊岐・戸岐・戸木・部木・引・疋・曳など、「ひき」又は「へき」と呼ばれる太陽と関係のある地名が多いということです。


  纏向石塚古墳は、古墳時代前期初頭の3世紀前半頃のもので日本最古の前方後円墳とされています。
  前方後円墳、全長96m、前方部長約32m・巾約34m、くびれ部巾約12.8m、周濠巾約20m、葺石・埴輪無。埋葬部詳細不明ですが、石材未確認なので木槨または木棺直葬と推定されます。周濠から弧紋円盤・鶏形木製品・鋤・鍬・横槌・水槽・建築部材等木製品が出土。
 弧紋円盤は、吉備地方にルーツをもつとされる、直線と曲線の組み合わせ紋様を持つ、木製の埴輪です。

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