
日本人の平均寿命が80歳以上である現代において、定年後の第二の人生を楽しく送りたいと考える人が80%以上とアンケート結果で出ています。「モノの豊かさ」から「心の豊かさ」へと個人のニーズも変ってきて、自由時間を重要と考えるようになってきました。社会的変化により、新たな価値観やライフスタイルの多様化が進み高齢化社会の到来にも大きな影響を与えていくと思います。
多気町天啓公園の近くからの夕焼け。


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三重県中部、伊勢湾に面した伊勢。その歴史は、およそ二千年前、「神宮」のご鎮座により始まった。天照大御神はご神託のなかで、「この神風の伊勢の国は常世の浪重浪寄する国なり。傍国の可怜国なり」と告げられたといいます。「神風の」は伊勢の枕詞であり、「常世」とは、寄せくる波のように、永久不変を約束された世界。「傍国」(かたくに)とは片方が山で一方が海に面した土地。「可怜国」(うましくに)とは、美し国。好ましい国のことである。伊勢こそは、永遠に祝福される海辺の麗しい国であり、理想の国であった。
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宝暦13年(1763・34歳)5月25日、江戸の国学者・賀茂真淵と対面がかない(松坂の一夜)、やがて門人となった宣長は、もっぱら『万葉集』について手紙で質疑応答を繰り返した。真淵からの指導と並行して、『古事記』研究に着手し、以後35年の歳月をかけ『古事記伝』44巻を執筆した。『古事記』は、712年に書かれた現存最古の歴史書。『古事記伝』はその注釈書。『古事記』研究の方法と意義を説き、全部漢字で書かれた本文に読みを付けて、更に背後にある当時の人の思想や世界観まで読みとろうとした。
宣長の学問領域は、「物のあはれ」論で有名な『源氏物語』や和歌研究、古道論、漢字音やてにをは研究などの国語学などと幅広いが、その傾向は二つに大別出来る。まず、和歌を論じて『古事記』に及ぶ流れである。思索の過程は『石上私淑言』に詳しい。
二つ目は、『古事記伝』である。国語学はもとより、国号や暦、天文の考察、吉野・飛鳥紀行『菅笠日記』も、みな『古事記』研究に包含される。
これを川の流れにたとえてみよう。源流は少年期の乱読である。やがて京都や和歌への関心に『源氏物語』が加わり少し大きな流れとなり、そこに「好・信・楽」の言葉で象徴されるような旺盛な好奇心がいくつもの支流として注ぎ込み、やがて『古事記伝』という大河となる。このように宣長の関心の推移は、非常に明確である。
宣長は、揺れ動く人の心を、物の哀れを知ると言い、歌や物語は物の哀れを知ることから出てくる物であると言っている。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。

松坂・本町の江戸店持ち商人の家に生まれた。8歳から手習いを始め、謡曲や貝原益軒の著書などを貪欲に学ぶ。だが、「商いのすじにはうとくて、ただ書を読むことをのみ」好んだと述懐するように商売には関心がなかった。
十代後半の宣長は「京都」に憧れ、「和歌」への関心を深め、『源氏物語』を読み始める。
行く末を案じた母の勧めで医者となるため、1752年3月・23歳、京都に行く。
京都遊学は5年半に及び28歳で帰松して没する72歳まで町医者として働き続け生計をたてた。
帰郷してまもなく2月、宣長は松阪の歌会「嶺松院歌会」に入会し、同年夏、その会員らを対象に『源氏物語』の講釈を開始する。歌会と古典講釈は、72歳で没するまで継続し、学者としての宣長の活動拠点となる。
一方、この頃から、日本人本来の世界観や価値観を探求しようと考え、そのためには『古事記』解読が必要であると確信した。