室生赤目青山国定公園の中心にある青山高原が雄大な稜線を見せ、雲出川のすがすがしい川音が聞こえる広々と開け絶景のパノラマが見渡せる小高い丘はとても癒されるヒーリーングポイントです。起伏のゆるやかな高原では、四季折々楽しめる。春はアセビ・ツツジの群生が咲乱れ、続いてナデシコが赤い小さな花をみせる。秋はススキの白い穂をなびかせ冬の樹氷も美しい。高原北端の笠取山から青山峠まで、約12Kmの高原ドライブが楽しめます。
また、頂上付近には三十基以上の風車が建設され、本州最大規模の風力発電施設となりました。
ロケーション:標高:800m級 の山々をまるごと楽しめます。
雲出川屈指の景勝地である家城ラインは巨岩が川岸に迫り流麗な川の流れが楽しめる場所です。
鯉や鴨たちが悠々と泳いでいます
秋晴れの真っ青な空に癒され、自然を満喫できるパワースポット
小春日和
弥勒院善福寺
松阪市日野町、弥勒院善福寺(みろくいんぜんふくじ)は、真言宗高野山金剛峰寺の末寺で毎年2月の節分には、『星まつり』が行われ、一年間の安全祈願・祈祷・古い人形や御札の炊き上げ、豆まき、餅まき、火渡り等が行なわれる。寺伝によれば、もともと隣接する八雲神社(牛頭天王社)の別当寺だったという。
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揖斐川?徳山ダム
2007年に完成した、日本一の総貯水量を誇る貯水池を持つ徳山ダム。
水資源機構の多目的ダムで、洪水調節の他、上水道用水や発電の目的も兼ね備えている。現在、発電所が建設中でたくさんの資材が運ばれていました。完成すれば153,000kWの電力を生み出すことになります。
形式はロックフィルダムで、右岸に洪水吐を持つ。まだ新しいダムのため、リップラップに雑草などが無くとても綺麗です。リップラップは、ゴツゴツと積み上げた感じではなく、敷き詰めたという印象です。
徳山ダム事業発表当時の所在地である徳山村は、徳山ダム建設に伴って466戸・522世帯(約1,500名)が移転を余儀なくされた。ダム建設はすなわち、村の消滅という事態につながった。
徳山ダムの場合は「全村水没」という事態に至る重大性からその反対運動は官民一体となった激しいものであった。
徳山ダムは西濃地域の新しい観光地として、休日には多くの観光客が訪れる。揖斐川町は横山ダム上流にあるプラネタリウム・藤橋城や谷汲山華厳寺などに徳山ダムを加え、新たな観光拠点として活用を始めている。
11月上旬には、紅葉が始まり湖面に映る赤や黄色の山が素敵な景色を見せてくれ癒しの旅になります。中旬にかけて一面の紅葉が楽しめます。
長良川?鵜飼
伝統的な漁法を古代から今に受け継ぐ長良川の鵜飼は、およそ1300年(西暦702年の史料より)の歴史があり岐阜の夏の風物詩として受け継がれ、「鵜匠」という地位を与えた織田信長や、鮎鮨を好んで献上させた徳川家康など、時の権力者に保護されてきたといわれています。
明治23年からは鵜匠に宮内省(現在の宮内庁)式部職という位が授けられ、その伝統が受け継がれ、鵜飼は「芸術」にまで高められました。伝統装束に身を包んだ鵜匠が鵜を自在にあやつって鮎を狩る様は、見る人を幽玄の世界へ誘い、燃え盛るかがりびに古典絵巻を感じられます。来夏は、是非一度屋形船に乗って体感してみてください。
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松阪市白粉町・来迎寺
来迎寺は天台真盛宗に属し、永正年間の創建と伝え、松ヶ島にあったが、天正16年(1588)蒲生氏郷による松阪築城に伴い、城下の白粉町に寺地を拝領して現在に至っている。 表門は、文政4年(1821)に竣工した一間鐘楼門で、大棟には瓦の鯱を挙げる。一階が通路、二階に鐘が掛ける。鐘は門より古く貞享元年の銘文がある。扉はケヤキの一枚板。
本堂などは、享保元年(1716)の松坂大火で焼失したが、程なく三井家などの尽力で再興された。その費用は8700両にもなったという。再興された本堂は現在、国重要文化財に指定されている。
境内には芭蕉の句碑もある。墓地には、本居宣長次女・小津美濃夫婦や門人・小津信業夫婦の墓がある。近くには三井家の別荘「畑屋敷」もあった。檀家には三井家の他、安南貿易の角屋七郎兵衛一族や、豪商長井家である。
塔頭・覚性院の戒言は本居宣長の門人。宣長もしばしば覚性院に遊び、桜や紅葉を楽しみ歌会を開いた。
本堂は、享保11年から再興にかかり、同16年に完成した複合仏堂で、前後に並ぶ外陣(げじん)と内陣(ないじん)を合の間で繋いでいる。前方の外陣は桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)4間、寄棟造、本瓦葺、前面に向拝(こうはい)3間をつける。後方の内陣は、身舎(もや)の周囲に裳層(もこし)を巡らした宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺の建物。身舎は方3間、阿弥陀、観音、勢至の三尊来迎像を配し、その背後の壁には二十五菩薩来迎図を描く。本堂は複雑な外観をもつとともに内部の空間構成は豪壮で、意匠的にも優れており、江戸時代中期を代表する建造物である。
本堂の再興にあたっては松阪が生んだ豪商三井家が深くかかわっており、再興費は8,700両にもなったという。 なお、境内建物のうちで裏門(別記)が最古に属し、現表門(鐘楼門)は文政4年(1821)に、客殿は明和2年(1765)に完成している。
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