松浦武四郎の生家


   松浦武四郎翁は、文化15年(1818年)2月6日、松阪市小野江町に松浦家の四男として武四郎は生まれました。父親は干支にちなみ「寅」と関わりの深い竹に、四男の「四」をつけ「武四郎」と名づけたといわれています。
 家の前には、旧参宮街道が通っていました。四日市の日永で東海道と分岐して伊勢神宮まで続く道で、多くの旅人たちが行き交いました。
 武四郎翁が、12歳の頃「文政のおかげ参り」というのが大流行します。全国各地から伊勢神宮へお参りする人々が、一年間に400?500万人もいたといわれていて、武四郎翁の家のあたりにも、宿屋さんがたくさんあり、「名所図会」で読んだいろいろな土地からやってくる旅の人たちを見て、武四郎は旅に出たいという気持ちを強めていきました。

  武四郎翁は、16歳で江戸へ初めて一人旅をします。ここから日本全国を歩いて巡っていくのでした。好奇心旺盛で、やると決めたらとことんやる性格のようで、近畿?四国?九州?山陽、山陰?北陸?東北へと歩いて歩いていきましたが、普通なら一日40キロがやっとといわれる当時の旅を、武四郎翁は小柄な体格にも関わらず60キロも歩いたといいます。全国各地をまわりながら、霊山と呼ばれ山々を登っています。江戸では水野忠邦の屋敷で奉公したり、また長崎では髪の毛を剃ってお坊さんになり、名前も「文桂」と改めました。
 そして26歳のとき10年ぶりに帰郷しますが、すでに父母は亡くなっていました。

  長崎にいたころ、日本の北のあたりにロシアの船が接近しているという話を聞いたことが、武四郎翁の人生に大きな転換をもたらしました。この頃、アジアにはアメリカやヨーロッパの国々が進出し、植民地を拡大していましたが、このままでは日本もロシアに奪われてしまうという思いにかられた武四郎翁は、まだどんなところかよくわかっていなかった蝦夷地(今の北海道)に行って、自分の目で確かめようと一大決心を固めたのでした。このとき弘化元年(1843年)、26歳。しかしその決意が実を結んだのは2年後のことでした。

  蝦夷に渡った武四郎翁は、商人たちの援助を受けましたが、後は、自分で探索に道なき道をアイヌの人達に手伝ってもらいながら合計6回も行い、択捉島にも渡っています。そして見事に北海道の地図を書き上げています。
 北海道では小学校のとき必ず松浦武四郎翁を授業で習うのでみんな知っているそうです。道内に武四郎翁の碑が大小54か所もあり、江差には武四郎翁を祀る神社もあるようです。一度お参りに行ってみたいものです。

  松浦武四郎記念館の玄関の床に武四郎翁が作成した地図があります。

  7年前には、生家が破産管理人の管理下に置かれていて、競売にかけられることになりましたが、松阪市が史跡指定地として約1550万円で購入し、武四郎翁ゆかりの主屋と離れのほか、土蔵2棟を改修し公開することになりました。
 文化財は一度壊してしまうと二度と再現が出来ませんから、今後も大切に保存して、顕彰していきましょう。

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