松阪市街の参宮街道、日野町交差点から紀州への分岐点から約1kmほど行くと通称、近鉄道路を越えた先から旧道に入ると古い町並みを見ることができます。
歴史を調べても特別町並と関係ある事柄が見つからないでですが、町並は江戸末期から明治にかけての町並がそっくり残っている感じがします。それも活きている町並なので、保存対策をして立派な伝統的な町並を残したいものです。
この古い町並は、道路拡張などの開発から免れ、江戸末期に建築されたと思われる建物もあり、2階部分には虫籠窓が穿たれ、両妻部には袖壁が張り出している。1階部分には出格子が端正に保たれている旧家もあって、電柱が無ければ往時の姿そのままともいえる町並が残されています。
松阪城下の外環部に位置していて、和歌山街道を松阪に通う要人や旅人、さらには伊勢神宮へ参る人々なども頻繁に通り、また周囲に肥沃な農村地帯を抱え、穀物をはじめ木綿や煙草が栽培されていた。そのようなことからも商人が数多く集結したのだろう。この町並みの中に「朝日製菓」という和菓子屋さんが今もありますが、甘味以外にバケットやサンドイッチなどベーカリーも売っていて味もいいですよ。
松阪市白粉町465番地にある「常教寺」は、浄土真宗高田派の寺院です。1671年に松阪市駅部田(まえのへた)町から移ってきたようでうす。本堂の建立は1799年。
弊社のご近所で、白粉町では、同じ4組(町会)なんです。
市指定の文化財「木造阿弥陀如来立像」が安置されています。通肩で肉髻、地髪とも低く、螺髪はやや粗い。眉長く、わずかに開く玉眼の目尻は少し上がる。鼻はほそく、口は小さくまとまる。肩はなだらかで、胸が張り、腹の出は少ない。左肩から左腕や腹部、そして両脚間へ垂下する衣文には淀みがない。左肩前と右腹前に衣文のたたみがあり、時代の好みを示している。なお、さし首で左手第三指先が欠ける。もとは笹川町字只越の地蔵堂に安置されていたが、明治末の廃寺の際、個人蔵となったが常教寺に施入された。
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四日市から鈴鹿、亀山にかけて日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年(1879年)、内務省が「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳が日本武尊の墓であると治定し、能褒野陵とした。
地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画された。 明治16年に神宮祭主・久邇宮朝彦親王より「能褒野神社」と社号が選定され、明治17年3月に能褒野陵の側に神社創建の許可を得、有栖川宮その他の宮家から幣帛料をたまわった。明治28年(1895年)に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれた。
社殿の中には、日本武尊の大きな御旗が掛けられています。