堀坂山に登頂しました!


  今日は、絶好の登山日和に恵まれ、松阪市の森林公園に車を駐車して、堀坂山?観音岳を縦走する周遊コースを5時間かけて登ってきました。堀坂山には、登ったことがありましたが、堀坂峠から30分ほどのルートでしたから、今回初めて周遊コースにチャレンジしてきました。

  森林公園の少し先から林道に入り、『堀坂山登山道雲母コース』から入山して、山頂まで、休憩しながら約2時間の登りで思ったよりきつかったです。
  以前に書きましたが、「堀坂山」の山頂は、太陽の道といわれる北緯34度32分上にあります。「太陽の道」とは、春分の日と秋分の日に太陽が通るラインのことで、このライン一帯には古墳、神社、寺が並んでいるというのです。東は、伊勢湾と太平洋の分水地の神島から西は、淡路島の伊勢の森といわれる舟木石神座まで約200キロのことをさしています。
 今日は、縁があってこの頂を目指せることを幸せに感じました。


  山頂の手前で、『雌岳 左すぐ』という黄色い案内板に導かれて680mの雌岳ピークに立つことができます。信仰の山なので、石仏が安置された大きな石室がどっしりと構えていました。そしてここからは伊勢平野と伊勢の海が広がって松阪が一望できる絶景が広がっていました。


  雌岳を出ると勢津コースへの分岐点である鞍部に下ります。ここは北側が開けていて観音岳を正面に見ることができました。ここから、頂上までの登りが一番しんどかったです。普段の運動不足を実感し、攣りそうな足に「ファイト」と励ましてピークに到着しました。


  今日の山頂からの景色は最高でした。日差しが穏やかで、風がなく目の前の白猪山や遠く奈良県境の高見山まで見ることができ、苦労して登ったご褒美をいただいたようです。一緒に10人とお昼ご飯に食べたおにぎりは最高においしかったです。また、この冬期でも登山される方が大勢いらっしゃるのに驚きました。ここは、体を鍛えるのにちょどいいコースのようです。

  757mある堀坂山のピークから605mの観音岳へは、461mの堀坂峠まで下りてまた登りますが、1時間もかかりませんでした。この頂上からの伊勢平野と松阪市内の景色は、伊勢平野と松阪市内だけでなく、森林公園あたりも見え、堀坂山が綺麗に見えるので、格別に素晴らしいですね。


  全行程8.5?ほどの周遊コースを無事に歩ききることができた達成感と満足感は、最高ですが、この後の筋肉痛が心配です。

  大日如来像も鎮座されていました。みんな無事に登山できたことに心から感謝しています。5日前に来日した若者たち10人が、これから3年間元気で頑張って知識と技術を習得して、ベトナムに帰れますことをお祈りしました。

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  三重県松阪市白粉町357-5
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斎宮歴史博物館


  三重県多気郡明和町にある斎宮歴史博物館は、昭和45年(1970)、大規模宅地造成計画に伴う事前発掘調査で、明和町竹川と、その東に接する斎宮の地が、「幻の宮」といわれた斎宮の跡地であることが判明、宅地造成は中止されました。その後も発掘調査は継続的に進められ(現在も継続中)、昭和54年には一帯の約137ヘクタール(東西約2キロメートル、南北約0.7キロメートル)が国指定史跡に。
 三重県立斎宮歴史博物館は、この史跡の一角に平成元年(1989)開館。全国でも珍しい、遺跡と連動した県立のテーマ博物館です。

  斎宮は伊勢神宮を考える上で不可欠な存在である。「幻の宮」と呼ばれたその遺跡が今、現実の中にその姿を現しつつある。そんな平安時代の遺跡と直に接することができて、しかも博物館でその調査成果の展示をも見ることができる所など、滅多にあるものではない。平安京にも平泉にも、このように遺跡と連動した府県立の博物館は、ありません。
 伊勢志摩に来る観光客が、年間800万人ともいわれるのに、この博物館を訪れる人は、ごく少数です。この斎宮に来てもっと歴史にロマンを感じていただきたいと願っています。

  竹の都とよばれた斎宮。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。

  斎宮歴史博物館は、日本の古色・梅ネズミ色の外観。エントランスから展示室にかけての天井にはアコヤ貝をスライスした装飾が施されている。
 展示室1では、文字(文物)から斎宮を、展示室2では、もの(発掘品)からわかる斎宮をテーマにしている。展示室1の奥壁には原寸大の斎王の居室を復元。歴代斎王や歴史はパネル展示で。群行の様子もミニチュアで再現されている。展示室2では発掘品を展示。斎宮跡の航空写真からはスケール感が伝わってくる。またCGを駆使して立体的・視覚的にこれまでの研究成果を紹介する。
 大型3面マルチスクリーンによる映像は、3種類ありどれも見逃せない。「今よみがえる幻の宮」では斎宮の誕生から終焉までを幻想的に描く。勅使訪問などの様子は言葉使い、背景の時代考証は忠実に。平安時代の口調はいたくのんびりで、たどたどしい。

  近鉄、斎宮駅のそばに平成8年「いつきのみや歴史体験館」がオープンして、国史跡斎宮跡の案内機能を果たすために、斎宮のあらましや発掘成果のパネル、発掘調査の速報コーナーなどが設けられており、斎宮の歴史や発掘の概要を知ることできます。あわせて、斎宮の最盛期であった平安時代の歴史や文化、技術を実感することができる様々な体験プログラムに参加することができます。
 十二単(じゅうにひとえ)や直衣(のうし)の試着体験を毎日おこなっているほか、天皇や斎王の乗り物であった葱華輦(そうかれん)に乗ってみたり、盤双六(ばんすごろく)や貝覆い(かいおおい)などの古代の遊びに挑戦することができます。

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太陽の道 斎宮 竹神社



  太陽の道とは、北緯34度32分の線上に箸墓古墳(奈良・桜井市)を中心に東西200?にわたって古代史につながる遺跡、史跡が並んでいることを奈良の写真家、小川光三氏が発見したもので、「太陽の道」には、淡路の伊勢久留麻神社、長谷寺、三輪山、田原本の多神社、広陵の百済神社、斎宮・竹神社・祓戸、神島の八代神社が並らんでいる。三重県明和町斎宮の竹神社(竹連 タケ=「聖」)の祭神は、長白羽神で正殿は、千木が内宮(伊勢神宮)と同じ造りになっています。 

  現在の竹神社の場所は、伊勢街道(旧参宮街道)と近鉄山田線に挟まれた所にあり、正確には太陽の道上にはありません。もとは、現在の竹神社は、区画整理のために移築されたもので、もともとあった場所は、「斎王宮址」石碑の真西(!)800m、すなわち太陽の道の真上なのです。
 

 太陽の道で興味深いのは、この竹神社と奈良県桜井市の檜原神社との位置関係です。檜原神社は、第10代崇神天皇の時、京に疫病や不作が何度も起こったので、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。第11代垂仁天皇になって、天照大神を倭姫命(やまとひめのみこと)を御杖代にして託すことになった。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所を求め巡幸して、最終的に大御神の希望で、伊勢国の五十鈴川上に遷したといわれています。
 倭姫命が、天照大神の御魂を持って出発した檜原神社と斎王としてお住まいになった斎宮は、竹神社のすぐそばで、太陽の道(北緯34度32分)であることから、倭姫命の太陽の道伝説となっているようです。

 境内にある石燈籠の由緒が書かれていました。
「此自然石灯籠は池村氏神の其の一つ饗庭の森八王子の宮の常夜灯であった嘉永7年の遷宮に際し氏子が記念に造ったものである。
之を造るには当時伊勢の国で有名な自然石灯籠を各地に見学し、又伐石の採取には池村の山林中をくまなく探し求めた、殊に台石の立石に使われている石は運搬中誤って二ツ池底に転落したものを師走の寒中に池の堤に大割木を山と積み焚置いて温を取り氏子等が交代で池底にもぐり該石に縄をかけ、之を引き揚げたと撰者は祖父から聞かされている。斯様にして造りあげたという当時如何に氏子等の崇神思想の高かったことがうかがわれる。
昭和37年池村より此宮に移転した自然石燈籠としては県下で稀に見る大燈籠である。」

 竹神社のある斎宮という地名は、神宮を斎王制度が固まっていくとともに、地名も 「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数 える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を参拝せられた。「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に 麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られている。現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年 6月「斎王まつり」が行なわれます。

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斎宮(いつきのみや)


  多気郡明和町にある斎宮は、近鉄電車がそばを通る竹の都といわれるところです。歴史的呼び方である斎宮(いつきのみや)は、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王(いつきのひめみこ)の住む所でした。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられます。

 斎王に選ばれると、皇女は嵯峨野の野々宮神社に入り前後三年間の潔斎を経て、伊勢の斎王宮に群向します。そして、天皇が退位するか、両親が死ぬまで、ここで斎王として暮らすのです。
 この斎王宮は神宮のある宮川の外側にあり、普段斎王が神宮の神域に立ち入ることは禁止されていたそうです。斎王といえども穢れた神域外で生まれ育ったことには変わりなく、6月・9月・12月に行われる三節祭の時のみ、神域内に入り、外宮・内宮に玉串を捧げていたそうです


 崇神天皇(すじんてんのう)の頃、天照大神(あまてらすおおみかみ)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、宮殿の中に祭られていました。けれど二柱の神を同じ場所に祭ることは不都合が多かったため、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に移して、崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせることとなりました。これが『斎王』の始まりです。斎王は神の依代(よりしろ)でもあることから、『御杖代(みつえしろ)』と呼ばれることもあります。


  垂仁天皇(すいにんてんのう)の時、老齢となった豊鍬入姫は斎王の任を退き、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)がその後を継ぎました。この倭姫は日本古代の英雄・ヤマトタケルの叔母にあたります。彼女は天照大神を鎮座させる場所を求めて、宇陀(うだ)?近江?美濃を巡り、遂に伊勢の国に至りました。ここで初めて天照大神が満足の意を表わしたので、この国に社を建て(伊勢神宮の始まり)、斎王が忌みこもるための宮を五十鈴川のほとりに建てました。これが『伊勢の斎宮』の始まりです。

 斎宮制度は伝説の時代を除くと、天武天皇(てんむてんのう)皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)から始まって南北朝に廃れるまでの約660年間続いたそうです。
 天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代します。斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限りません)の中から占いで選ばれます。大体が母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりするので、占いで決めるといっても、あまり公平な選び方ではなかったようです。

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太陽の道 北緯34度32分


 松阪の秀峰「堀坂山」の山頂は、太陽の道といわれる北緯34度32分上にあります。「太陽の道」とは、春分の日と秋分の日に太陽が通るラインのことで、このライン一帯には古墳、神社、寺が並んでいるというのです。東は、伊勢湾と太平洋の分水地の神島から西は、淡路島の伊勢の森といわれる舟木石神座まで約200キロのことをさしています。
 太陽信仰と関係も注目されるスケールの大きい発見と思います。

 日本の太陽信仰の成立には、稲作があるといいます。
稲は本来、日本には自生していない亜熱帯の植物です。稲を北限で栽培する日本では、稲作は春から秋の間の一定の期間内に行われなければなりません。
春分になると田起こしを始め、秋分になると収穫する。春分‐夏至‐秋分‐冬至という太陽の運行を知ることが、日本の太陽信仰のベースです。太陽の動きを読んで農業を指導する人を「日知り」と呼び、これが聖(ひじり)の語源です。

 外国では国旗に星や月をシンボルとして描きますが、日本は日章旗・日の丸を掲げたり、日本人はお正月には初日の出、伊勢神宮には天照大神を祭って来ました。日本人の合意の形成は、星や月ではなくてお日様だけでした。


 節分とは、季節の変わり目を意味します。立春・立夏・立秋・立冬の前日を一般的にさします。つまり年に4回あるうち、立春の前日の節分が平安期頃より特に重要視されております。天皇陛下の宮中祭祀でも、立春の節分の神事が執り行われます。
 アジアの広い地域でも、節分の前後1ヶ月間ほどの間に、旧正月(きゅうしょうがつ)と言う、西暦の正月よりも盛大に祝う春の行事が古来からあります。
 立春の節分は、太陽の位置を表す太陽横経(たいようおうけい)が約315度です。これが春分の太陽横経360度=0の起点に戻る訳です。つまり天文学的に節分は、太陽が最終コーナーを回った感じに成ります。ちなみに、夏至点の太陽は黄経90度、秋分点は黄経180度、冬至点は黄経270度となります。
 つまり節分=太陽信仰だと言う事なのです。
 神界でも重要な節目と切り替えの時が節分だと感じます。
冬至(12月23日頃)に生まれた太陽の体勢が整い、いよいよ本格的に活動をし始める時が節分です。節分を境に、自然界の植物も春分に向けて活動を実際に始めます。
神界では、隠れた「陰の正月」が冬至であり、作用を始める「陽の正月」が節分だと言えます。とても重要な時です。
そして現実界では、この神界の2つの正月の間に、現実の正月を祝う行事が転写されているのです。
 古代の人間は、穀物の栽培と収穫から一日の生活のパターンのすべてを、太陽の動きに沿わせ従う事が幸福に繋がるとしていました。これは未だに霊的にも機能している事です。
だから、私たちも今日の節分から心機一転し、春の再生に向けて自分なりに出来る「目の前の事」を努力するのは非常に良い事です。
 大きな事よりも、先ずは掃除から始めましょう。これが禊(みそぎ)と祓いと成り、霊的に助けます。節分の豆まきの心得は、その後の掃除に在ります。
まいた豆の回収時に、家内のホコリを発見する事と成ります。大晦日の年越し蕎麦の風習も、砂金を扱う職人が一年間の掃除をする時、取りにくい場所の落ちた砂金の回収に蕎麦団子を使用した事が起源だとも言われています。

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