会津の夏?氏郷公


  会津若松市のシンボル『鶴ヶ城』。松阪から黒川といわれていた地方に領地替えとなった蒲生氏郷公は、街の名前を若松と命名し七層の巨城を立てました。その後、上杉・加藤・保科・松平と数多くの大名が治め、1639年の加藤明成公による会津若松城天守閣の改修工事で5層の白色の外壁の城になったようです。幕末の戊辰戦争では激しい戦場の舞台ともなったため大きなダメージを受け、政府の命令により城郭が取り壊されました。壕や土塁・石垣などは残っておりましたので、1965年に天守閣を復元されました。城跡は国の史跡に指定されており、内部は「鶴ヶ城博物館」として貴重な資料を展示・公開している。城の周りには公園が広がり、桜咲く春はもちろん、緑輝く夏の日、紅葉が美しい秋、雪化粧をした冬と四季折々の風情を楽しむことができます。

  氏郷公は、城下町の開発のため、松阪や甲賀から職人や商人を呼び、楽市楽座を導入して定期市を開設し、手工業を奨励して会津漆器や酒造、金細工など産業の振興を図ったのえ、これらは今でも会津の産業として根付いています。

  

  櫓にかかる月が大変美しく見えたという月見櫓跡から、お堀にかかる「廊下橋」を見ると、雄大な城跡石積を眺めることができます。
 天守閣からの眺望も素晴らしいです。


  天守閣から展望する、表門・南走長屋・干飯櫓。

  氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には深い絆があったようです。

  千利休が秀吉の怒りに触れ、切腹した時、利休の養子・少庵を会津若松でかくまったのが氏郷公でした。秀吉に千家再興を嘆願し、少庵は赦免された後、京に戻り千家を再興する事ができました。そして、宗左・宗室・宗守の三人の孫によって表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が興されたのです。現代茶道の源流があるのは、氏郷公が少庵をかくまったからこそ今の茶道の繁栄があるのでしょう。
 少庵をかくまうために作ったのが麟閣です。


  氏郷公が作り上げた若松市内の町割りは少し特徴があり、交差点が素直な十字路ではないのです。当時は、道に沿って用水路が流れており、その交点で流れを妨げないため、ともいわれます。
 氏郷公が作った松阪の城下町と大変似ていて、松阪は「二丁先を隠す」すなわち、城下町も城郭として敵の侵入を妨げる事を目的として町割りがなされました。「戦国の世の町作り」故の四つ辻構造と言えるでしょう。


  瑞雲山興徳寺は臨済宗妙心寺派の寺で、秀吉が奥羽仕置のため会津へきたとき三泊したほどの大寺院であった。蒲生氏郷の墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔で、京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられる。墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑があります。

蒲生氏郷公は、松阪だけでなく会津でも郷土の英雄として称えられる偉人です。

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手作り甲冑で出陣


  松阪市三大祭の「氏郷まつり」は、今年50周年を迎える記念になります。いつもの11月3日の開催までの間、プレイベントを行っていきますが、新たに始まる手作り甲冑(かっちゅう)で盛り上げる甲冑隊の指導者を養成する「手作り甲冑製作指導助手養成講座」が先日終了しました。2月からベルタウン二階で、講師から教わり完成させた4体の甲冑を市役所ロビーに28日まで展示しています。


  現在、甲冑を作ってくださる方を20組募集しております。5月14日から始まり10月には仕上げる予定で、氏郷まつりのプレイベントとして行われます。「いっしょにつくろう手作り甲冑」の講師が、今回の講座で甲冑を完成された西岡敏男さん、中島訓子さん、師井勝信さんの3人です。
 手作りの甲冑で武者行列に参加しようという方は、松阪市観光協会へご連絡お願いします。(TEL0598-23-7771)


蒲生氏郷公を顕彰する「氏郷まつり」では、氏郷公を主役に織田信長の娘であり奥様の冬姫に鉄砲隊、やり隊など総勢150人が市内をパレードします。ここに今年は手作りの甲冑を着た武者隊が参加することになり楽しみです。

  昨年の馬上の氏郷公ですが、カッコよかったですよ!


        冬姫が綺麗でした。

  50周年の「氏郷まつり」が盛況無事に行われることを願っています。

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松浦武四郎の生家


   松浦武四郎翁は、文化15年(1818年)2月6日、松阪市小野江町に松浦家の四男として武四郎は生まれました。父親は干支にちなみ「寅」と関わりの深い竹に、四男の「四」をつけ「武四郎」と名づけたといわれています。
 家の前には、旧参宮街道が通っていました。四日市の日永で東海道と分岐して伊勢神宮まで続く道で、多くの旅人たちが行き交いました。
 武四郎翁が、12歳の頃「文政のおかげ参り」というのが大流行します。全国各地から伊勢神宮へお参りする人々が、一年間に400?500万人もいたといわれていて、武四郎翁の家のあたりにも、宿屋さんがたくさんあり、「名所図会」で読んだいろいろな土地からやってくる旅の人たちを見て、武四郎は旅に出たいという気持ちを強めていきました。

  武四郎翁は、16歳で江戸へ初めて一人旅をします。ここから日本全国を歩いて巡っていくのでした。好奇心旺盛で、やると決めたらとことんやる性格のようで、近畿?四国?九州?山陽、山陰?北陸?東北へと歩いて歩いていきましたが、普通なら一日40キロがやっとといわれる当時の旅を、武四郎翁は小柄な体格にも関わらず60キロも歩いたといいます。全国各地をまわりながら、霊山と呼ばれ山々を登っています。江戸では水野忠邦の屋敷で奉公したり、また長崎では髪の毛を剃ってお坊さんになり、名前も「文桂」と改めました。
 そして26歳のとき10年ぶりに帰郷しますが、すでに父母は亡くなっていました。

  長崎にいたころ、日本の北のあたりにロシアの船が接近しているという話を聞いたことが、武四郎翁の人生に大きな転換をもたらしました。この頃、アジアにはアメリカやヨーロッパの国々が進出し、植民地を拡大していましたが、このままでは日本もロシアに奪われてしまうという思いにかられた武四郎翁は、まだどんなところかよくわかっていなかった蝦夷地(今の北海道)に行って、自分の目で確かめようと一大決心を固めたのでした。このとき弘化元年(1843年)、26歳。しかしその決意が実を結んだのは2年後のことでした。

  蝦夷に渡った武四郎翁は、商人たちの援助を受けましたが、後は、自分で探索に道なき道をアイヌの人達に手伝ってもらいながら合計6回も行い、択捉島にも渡っています。そして見事に北海道の地図を書き上げています。
 北海道では小学校のとき必ず松浦武四郎翁を授業で習うのでみんな知っているそうです。道内に武四郎翁の碑が大小54か所もあり、江差には武四郎翁を祀る神社もあるようです。一度お参りに行ってみたいものです。

  松浦武四郎記念館の玄関の床に武四郎翁が作成した地図があります。

  7年前には、生家が破産管理人の管理下に置かれていて、競売にかけられることになりましたが、松阪市が史跡指定地として約1550万円で購入し、武四郎翁ゆかりの主屋と離れのほか、土蔵2棟を改修し公開することになりました。
 文化財は一度壊してしまうと二度と再現が出来ませんから、今後も大切に保存して、顕彰していきましょう。

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北海道の名付け親「松浦 武四郎」


  松阪市小野江町出身の「松浦武四郎」翁は、北海道の名付け親として、最近、北海道各地で記念碑が建てられるようになってきました。人権や観察眼、健脚、地図作製能力、アイヌの風俗画などで素晴らしい能力を発揮しました。。教科書の片隅にも載っていないことが残念ですが、間宮林蔵をしのぐ偉人といっても過言ではありません。

   江戸時代末期の北方探検家の松浦武四郎翁は、アイヌの人達と共に生活しながら探検を続けました。差別心を持たない人権感覚に優れた官僚として、北海道の地名の多くを考え、アイヌ語に漢字を当てはめていった業績は今もなを生き続けています。

  晩年は、松前藩の圧力や政府のアイヌ融和政策に反発し、辞任してしまったため、政府からは、あまり良く見られなかったようですが、正義をつらぬいた姿は、素晴らしいと思います。そして、余生は、三重県と奈良県の県境にある「大台ケ原」の開拓をし、登山道をつけたり地図を完成させてりして貢献しました。地元では、大台ケ原に顕彰の登山をされています。


  2月27日(日)は、1988年2月に亡くなった、松浦武四郎翁を偲ぶ「武四郎まつり」が、松阪市の松浦武四郎記念館で行われました。当日は、北海道のアイヌの方たちも参加され伝統の民族舞踊を披露していただきました。

  松浦武四郎翁は、旅に生きた人生を締めくくるかのように、東京・神田五軒町の住まいをついのすみ家として選び、その東側に、8年の歳月をかけて書斎を設けました。一畳だけで完結した空間はかつてなく「自らの創作である」と自負していたそうです。
  写真は、この「武四郎まつり」から公開されることになった書斎「一畳敷」の複製品が、松浦武四郎記念館内におかれたものです。全国巡回展として「松浦武四郎と一畳敷」展を開催していた住宅設備機器大手のINAXに山中光茂・松阪市長が譲渡を要請し、移設が実現したようです。

  松浦武四郎翁は、知人に頼み、京都・渡月橋の橋げたや遷宮後の伊勢神宮用材など、有名な寺社仏閣などから91点の材料を集めて造ったという。屋根はススキぶきで、天井には龍の絵が描かれている。一畳の書斎を明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と絶賛したという。
 武四郎翁は、は著書「木片勧進」で「後世に残すためではなく、全国各地を歩き、さまざまな人々と交流した思い出のためで、自分が死んだら一畳敷の木材で死体を焼き、骨は大台ケ原に埋めてほしい」と記している。しかし、松浦家は極めて珍しい書斎のため、遺志には従わずに残した。現在は国際基督教大(東京都三鷹市)で国の登録有形文化財として大切に保存されている。
 INAXが昨年6月から大阪と名古屋、東京で開いたギャラリーの展示用に造った複製品で、幅1・2メートル、奥行き2メートル、高さ1・8メートル。床の間や障子、天井は本物そっくりに造られています。


 松尾芭蕉翁(伊賀市)、本居宣長翁(松阪市)とともに、三重県が生んだ偉人のひとり松浦武四郎翁は、北海道の探検に始まり、全国各地をすみずみまで旅をした人物で、武四郎の歩いた道をつなげば、日本地図ができ上がるとまでいわれたほど、その調査は日本全国に及んでいます。
  旧三雲町は、松浦家で代々大切に保存され、寄贈を受けた武四郎ゆかりの資料を展示する博物館として、「松浦武四郎記念館」を、平成6年(1994年)に開館させています。ぜひ、一度探検にお出かけください。

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