十一面観音様の本堂は国宝


  長谷寺の本堂は、大河ドラマ「江」の息子である徳川三代将軍家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したもの。本堂は傾斜地に南を正面として建っていて前面が京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっています。そこからは長谷寺境内全体を見渡せる展望が開けています。
 仁王門をくぐって長い登廊(のぼりろう)上中下と3つ合わせて399段の石段をクリアすると、さらに本堂の入り口に2段あり計401段になります。「死(4)」の苦しみを乗り越えたところに観音様はいるということになっているとか。


  本堂舞台から見た長谷寺の風景。大きな木は、天狗杉と呼ばれるています。仁王門から一直線に上に伸びる「登廊」が丁度直角の曲がる右側に目通り4m樹高約60mの巨木です。「登廊」を従えて天を突くように聳えている姿は圧倒的な大きさを感じます。

        清水の舞台ならぬ、長谷の舞台です。

  本尊十一面観世音菩薩は奈良時代より盛んであった観音信仰の象徴として崇拝され、平安時代になると、高貴な人々のあいだで長谷寺への参詣が流行しました。人々に慕われた「初瀬詣で」は「源氏物語」「枕草子」など多くの古典に語られています。「初瀬詣で」は次第に武家、庶民へと広がり、長谷寺はさらに多くの信仰を集めました。

  本尊は、通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他には見られない独特の形式です。高さが10mほどある日本最大の木造仏で楠の霊木で造られています。

  本堂は、外観上は1棟ですが、本尊を安置する正堂、参詣者のための空間である礼堂、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなっています。

       礼堂から相の間そして正堂を見ます。


  長谷寺を開いた徳道上人は、西国三十三所霊場めぐりの創設者と伝えられています。養老2年(718年)、徳道上人が病に倒れ冥土に行きましたが、閻魔大王から『あなたは死んではいけない。世に三十三の観音霊場があり、これを巡礼すると清められ、苦しみ悩みから救われる。まだ誰もこの霊場のことを知らないので、人々に知らせて広めよ』と教えられ、宝印を授けられて蘇り(黄泉帰り)されました。徳道上人は三十三の観音霊場をめぐり、人々に霊験を説いてまわりましたが信じてもらえませんでした。落胆した上人は閻魔大王から授かった宝印を摂津の中山寺に埋めて機が熟すのを待つことにしたようです。この宝印は約270年後に花山法皇によって発見され、再興されました。西国観音めぐりは、日本で最も古い巡礼で参拝者が多い事で知られています。

  長谷寺では、東北大震災後、義援金を集めるのに托鉢にとどまらず、若い僧侶たちの発案で始めた試みという本堂近くの鐘楼堂を開放して、参拝者に梵鐘を見てもらい寄付を募る箱が置かれるようになりました。


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